先日SNS上で、『日本の思想』(岩波新書、1961年)に関する「左寄り思想史」というコメントを見かけた。この夏で没後30年を迎える、政治学者・思想史家の丸山眞男(1914〜1996年)の著書のうちもっとも売れた一冊であり、今も版を重ねている。高校の国語教科書で、この本の第四章「『である』ことと『する』こと」を読んだ人も多いだろう。
「左寄り」という評価は、かつて冷戦の時代に、戦後論壇における「保守」の論客から、「革新」派とされた丸山に向けられたものである。共産主義国との対抗を重視するか、理想的平和主義を主張するか。日本国憲法をめぐる改憲論か護憲論か。丸山はそれぞれの問いについて後者の立場を明言し、「戦後民主主義」の論客として知られていた。SNSの界隈で気焔をあげるいわゆるネトウヨの人々には老人が多いから、古い時代に受けた印象が残っているのかもしれない。
ところが、この「左寄り」という批判を目にして、隔世の感を抱いたのである。いまから20年前、没後10年のころは、左派の論者が丸山について、むしろ保守的なナショナリストとして批判する声が高かった。リベラル・デモクラシーの発展を阻害する要素を、日本の思想史のなかに見いだし、一定の思考の枠組が時代をこえて生きのびていると指摘する。そうした丸山の姿勢が、「日本的なもの」の虚像に依存する、無自覚なナショナリストとして批判されていた。

しかし現在、「ナショナリスト」丸山に対する批判は、ほとんど鳴りを潜めている。いまにして思えば、そうした左からの丸山批判もまた、冷戦が終わり世界がグローバル化の時代に突入したことの、一つの現れだったのだろう。
国際社会における冷戦に対応する国内冷戦として、日本の政界と言論界で「保守」対「革新」の対抗関係が続いていたが、その構造が消えれば、「革新」派に属するとされた論者の権威も揺らいでくる。その揺らぎを受けつつ、日本「帝国」による植民地支配に関する批判の声が高まるなかで、ナショナリストというレッテル貼りもしやすくなったのではないか。
いまではIT技術と経済のグローバル化が大いに進み、中国やロシアなどの権威主義諸国の擡頭を通じて、世界の情勢は30年、20年前よりもはるかに混沌としている。もはや「戦後民主主義」の問題性を指摘するだけでは、状況を新たな角度からとらえ、有効な知恵を引きだすことにはつながらない。むしろ先ゆきが不透明で混沌とした地平にいるからこそ、従来とは異なる方向から、丸山眞男ののこしたテクストに向きあう営みを、時代を読み解く糧にできるのではないだろうか。
ちょうど40年前、丸山が亡くなる10年前に刊行された著書『「文明論之概略」を読む』中巻(岩波新書)の第十一講には、人間の「知」をめぐる独自の考察が展開されている。ばらばらな個別のデータである「情報」。その本来の発信源になっている、体系づけられた学問の「知識」。その「知識」を生み出す理性的・総合的な「知性」。さらに三者の根柢には、日常生活のなかで鍛えられる習慣や暗黙知としての「叡智」がある。この4層のうちでは、根本をなす「叡智」がもっとも重要であるはずなのに、現代においては、反対に「情報」がやたらに肥大しつつある陰で、「叡智」や「知性」が痩せ細っている。この「情報最大・叡智最小」の状態を丸山はきびしく批判していた。
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