東京五輪まであと500日を迎えた1963年の春。
それまでのオリンピックで活躍した英雄たちが、当時を振り返った。その座談会の中編をお届けする。
競泳5種目の優勝や、バロン西の勇姿が燦然と輝くロス五輪、「前畑ガンバレ」の名実況が記憶に残ったベルリン五輪。オリンピックの栄光がふたたび蘇る。
この記事に登場する人物
遊佐幸平(ゆさこうへい)〈馬術〉
9回大会に出場。以後、監督として参加。
西武子(にしたけこ)
10回大会の馬術大障害で優勝した西竹一中尉の未亡人。西中佐は硫黄島で戦死。
金栗四三(かなくりしそう)〈陸上〉
日本マラソン界の父。箱根駅伝の創設に尽力する。
熊谷一弥(くまがいいちや)〈テニス〉
日本としてのメダル1号。左利きの世界的名手。
高石勝男(たかいしかつお)〈水泳〉
東京五輪水泳代表総監督。日本クロール泳法の父。
鶴田義行(つるたよしゆき)〈水泳〉
9回、10回大会で200m平泳ぎ連続優勝。
南部忠平(なんぶちゅうへい)〈陸上〉
10回大会三段跳優勝。短距離、跳躍の万能選手。
織田幹雄(おだみきお)〈陸上〉
9回大会で三段跳優勝。「世界人と成るべし」と遺す。
清川正二(きよかわまさじ)〈水泳〉
10回大会100m背泳の優勝者。商社・兼松に入社した。
村社講平(むらこそこうへい)〈陸上〉
11回大会5000m、10000m4位。
竹中正一郎(たけなかしょういちろう)〈陸上〉
10回大会5000m、10000m出場。
田島直人(たじまなおと)〈陸上〉
11回大会の三段跳優勝。妻も五輪陸上選手。
兵藤秀子(ひょうどうひでこ)〈水泳〉
11回大会200m平泳ぎ、女性初の金メダリスト。
遊佐正憲(ゆさまさのり)〈水泳〉
10回大会800mリレー、11回大会800mリレー優勝。
葉室鐵夫(はむろてつお)〈水泳〉
11回大会200m平泳ぎ優勝。戦後は毎日新聞社に。筆も早かった。
小池禮三(こいけれいぞう)〈水泳〉
10回、11回大会200m平泳ぎ、それぞれ2位、3位。
吉岡隆德(よしおかたかのり)〈陸上〉
10回、11回大会に出場。“暁の超特急”の異名を持つ。
古橋廣之進(ふるはしひろのしん)〈水泳〉
敗戦の暗さを吹き飛ばした、フジヤマの飛魚。
宮崎康二(みやざきやすじ)〈水泳〉
10回大会100m自由形で優勝。
吉野トヨ子(よしのとよこ)〈陸上〉
15回大会円盤投げで4位。
小野喬(おのたかし)〈体操〉
4大会で金メダル5つ。「鬼に金棒、小野に鉄棒」。
河西三省(かさいみつみ)〈アナウンサー〉
11回大会で「前畑ガンバレ」の名文句を残した。
第10回・1932年ロスアンゼルス
第10回のロスアンゼルス大会では日本は名実ともに国際スポーツ界の一等国となった。そして、活躍の目ざましかったのは男子水泳陣である。競泳6種のうち400m自由形をのぞいて、5種目に優勝し、世界のスポーツ界を驚嘆させた。そのほか三段跳で優勝し、さらに大会最終日、主競技場で行われた馬術の大障害にも優勝し、有終の美を飾ったのである。
菅沼 馬術もアムステルダムでビリだったのに、4年後さっと優勝の栄誉をかち得た。これは大へんなことだったと思うのですが、西竹一中尉が優勝したのにはどんな理由があるのですか。
名馬ウラヌス
ロス五輪・馬術大障害での西竹一中尉
遊佐(幸) 上手だったからですよ。それにいい馬でした。あれはフランスの馬でして、ちょっと面倒な癖のある馬で、西君と2人でイタリーで見つけたのです。
西 当時11歳ということでした。ウラヌスという名でして、なんでも主人がどうしても自分のものにしたいということで、買ったときいておりますが。私は大会のとき軽井沢にいたのですが、当時の東京日日の方が来られまして、主人が重傷だというのです。大障害にでると承知しておりましたので、どこかで落ちて怪我したのか、さっぱり詳しいことはわからないのです。ただ重傷だというばかりで……。
南部 こういっちゃ失礼ですけれど、西さんが優勝されると思っていないから、優勝と重傷を聞きちがえたのでしょうね。よっぽどあわて者だな。
西 ええ、その上、竹田宮様がちょうど軽井沢の私の家に見えておられて、車にのってお帰りになられようとしたら、その日日新聞の方は「キミは朝日か、朝日か」と聞くのだそうです。先越されたと思ったのでしょうか(笑)。それで、私どもが「もうすぐ放送がはじまるから、待っていてほしい」といっても、きかないで写真をとって帰ろうとされるんです。まさか私たちも重傷だということだから笑ってもいられませんで、憂鬱な顔をして撮られていたのですけどもね(笑)。
高石 喜びと悲しみとじゃ大違いですね。
西 記者の方が帰られて、それでもと思って放送をきいていたら、重傷じゃなくて優勝なんだそうで、ホッとするやら嬉しいやらで、泣いていいのか笑っていいのか。
遊佐(幸) 私なんか現地にいて優勝するんじゃないかと思っていた。西君というのは非常に面白い男で、馬術にかけては天才的なところがありました。ヨーロッパなんかに遠征している間にすでに今日の騎乗法を、自ら案出というか発見したんですからね。大した奴です。
菅沼 お聞きしていいものかわからないのですけれど、西さんが硫黄島へ行かれるとき何かオリンピックの記念品をもってゆかれましたか。
西中尉
西 はい。ウラヌスのタテガミと、ロスアンゼルスで使ったムチ、それから靴をもってゆきました。主人は、自分がいなくなれば、そのまま消えてゆくような死に方をしたい、ということでしたし……。
織田 硫黄島では、アメリカ軍がずいぶん西さんに呼びかけたということですが。
西 はい、その呼びかけたアメリカの方が現存しているものですから、私もできればその名前を知りたいといろいろと調べてみたのですが……。出て来い、西、といって盛んに助けようとされたのは事実のようでございます。しかし、日本の軍人としては捕虜になることなど許されないことでしたし、ことに指揮官としては、なおさらで、結局、それに応じなかったということでございます。
遊佐(幸) いま生きていてくれれば、東京オリンピックのコーチで頑張ってもらいたいのに、81歳のこの私が陣頭指揮では、どうも……。
熊谷 ウラヌスはどうなったのですか。
西 騎兵学校にその後寄附いたしまして、主人が戦死する少し前に病死したということでした。功労馬ですから骨だけでも残そうという希望だったのですけれど、それもできないので、土の中に埋めたということでした。
遊佐(幸) だが、残念なことに、そこへまた直撃弾が落ちましてね。結局、何にも残らなかったのです。
実況ならぬ実感放送
川本 いま西さんのお話に放送の話がありましたが、河西さんに一つ伺いましょう。
河西 ロスアンゼルスのときは、残念なことに商業放送会社との話合いがつかず、実況放送はできなかったのですが、それでも万が一のときはと思って、松内(則三氏)さん、島浦(精二氏。故人)さんと私の3人が行ったのです。それでどうしようかということになりまして、やむなく競技場で見たままを、スタジオにゆきまして、あたかも眼前で行われているが如くに放送したわけです。実感放送と名づけたわけなんです。
清川 そうでしたね、小さなバラックでマイクを前に、実況さながらに汗をかいておられましたね。
河西 汗もでますよ。たとえば陸上の100mだったら10秒そこそこのものが、私たちがやりますと30秒から1分もかかっているわけです。そんな調子で3人して全競技をやったのですから。
菅沼 ベルリンでの「前畑ガンバレ」はあとからお聞きすることにして、前畑さんはロスアンゼルスでは初出場で、2位に入って銀メダルをとられたんですが……。
兵藤 はい、あんなにいい記録がでると思わなかったのですけれど、向うへ行きまして環境がよくて、何一つ不自由しなかったことがよかったのだと思うんです。まだ子供で、こわいもの知らずでしたし……。
清川 あのときの日本水泳チームは若かったですね。平均年齢が16、7だったと思うんです。私が19歳、100m優勝の宮崎君が15、1500m優勝の北村久寿雄君が14歳、牧野正蔵(1500mで2位)君が17で、小池君はいくつだった?
小池 16歳だったかな。
遊佐(正) 僕も16歳の田舎中学生だったな。
金栗 さっき前畑さんが環境がよかったといいましたが、そんなによかったのですか。
一食にオレンジ30食う
清川 これはロスアンゼルスは気候自体がいいですから。オリンピック村そのものはまあお粗末なものでしたが、芝生をうえたりしていい環境を作ってくれましたからね。それから食物がいい。牛乳はふんだんにある。オレンジは食べ放題で……一食に30も食べた奴もいる(笑)。
葉室 それは遊佐さんでしょう。
遊佐(正) 30はオーバーだけど、25は食ったかな。さすがに25を一ぺんにたべたものだから2度ばかり飯が食えなくて。
宮崎 私もつられてよく食べましてね、帰国の船中に黄疸になってしまい、横浜港の大歓迎を受けられず病床にあった始末でした。せっかく100mに優勝したのに、と思うとすまなさと残念さで情けなかった。
清川 その後、私はベルリン、ヘルシンキ、メルボルン、ローマと4つ見ていますが、その次によかったのはベルリンでした。ではあるけれども、気候だけはヒトラーの力をしてもどうにもならなかったですね。
南部 でも、僕はWCには参ったな。野っぱらで、丸見えじゃないの。やりにくかったな。雨が降らんので天井はないし。
宮崎 なれないとなかなか出なくてね(笑)。
南部 その上、隣から話しかけてくるでしょう。「おうい忠さん、どうだい?」。助けてくれだったよ(笑)。
小野 応援団はどうでしたか。一世、二世が多いから大変だったでしょうね。
清川 それは大勢いました。それに当時あそこは世界一の排日気分の強いところで、どっちかというと日本人一世の生活はみじめなものでした。そこへわれわれがいってどんどん日の丸をあげるでしょう。二世なんかもアメリカ人になりきって、日本を軽蔑していたのですが、改めて祖国を見直すというわけで……おかげで赤インキがやたらに売れてね、どうしたのかと思うと、それで紙に日の丸を書いて町中をねって歩く。
兵藤 肩身がとても広くなったといわれまして、私もずいぶん喜ばれました。
織田 満州事変の直後でしたからね。
金栗 お話をきいていて羨しいと思います。ストックホルムのときなんか、ほとんど応援はいませんでしたものね。
レコード「水泳選手の歌」
熊谷 アントワープのころは少しおりましたかね。東久邇宮様がみえられて、いっぺん御飯をごちそうになったことがありました。
金栗 応援の多い中で、日の丸をあげるのはいい気持なんでしょうね。特にロスアンゼルスの背泳は1、2、3位と3本もあげたのですから。
清川 日の丸が3本あがったというのは結果からみると偶然でもあり、条件もよかったのです。私と2位の入江稔夫君、3位の河津憲太郎君はもの凄く仲がよかった。競技の上では好敵手であるんですが、私生活ではバカに気が合って、3人で合作してポリドールから「水泳選手の歌」というレコードを吹きこんだりしてね……。
古橋 どんな歌なのですか。
清川 さあ、忘れちまいましたが、ポリドールへ行けばあるんじゃないですか。今だからいっていいと思うが、準決勝で河津君が危なかったのです。すると松沢一鶴さんが、引っぱって決勝に残せっていってね。それがうまくゆきまして決勝に3人残った。「あとは好きにやって、メダルを全部とっちまえ」(笑)。
高石 決勝のときは断然キミは1位だった。
清川 いや、3人ともおそらく各自のベスト・タイムなんですよ。
川本 さっきの前畑さんもそうですが、本当に偉いと思うのですよ。オリンピックへ行ってみんな最高記録を出すんだから。
清川 とにかく水泳陣トップの100mで宮崎君たちが勝って意気大いに上りましたからね。
宮崎 そう、ロスへついて、突然変異みたいに強くなった。私なんか優勝候補のユの字もなかったので、気楽に泳げました。それがよかったのですね。
鶴田 私は2回連続優勝で、更にアムステルダムのときよりも記録を3秒4縮めたのですが、実に苦しかった。むしろロスアンゼルスのときは、経験を生かして、若い小池君の練習台になるつもりだったんです。
小池 私も苦しかったですね。大体、陽光さんさんと輝くロスで、女の子をみると、もう中学5年の私には刺激が強すぎました。だから早くレースが終ればいい、とそればかりで、苦しまなければ勝てないなんていうことを知らなかったのですね。
鶴田 それに優勝候補という重荷もあったしね。決勝の前夜、キミは「眠れない、眠れない」と2度も私の部屋を訪れてきて、ちょっと心配になったほどでした。
控室でコチンコチン
小池 ええ、それで、決勝で泳ぎながら、いつか準決勝のときのように鶴田さんを抜けると思っていたんですよ。ところが睡眠不足と、精神的な疲労とかで、身体が重くて進まないのですね。鶴田さんはちゃんと計算して泳いでいたようでしたね。
鶴田 とんでもない。全力をふりしぼっていたよ。ゴールしてプールから上ったとき、ガックリ両膝をついて怪我をしたほど疲れていたな。
清川 どんなに自信をもっていても、あれだけの大レースとなるともうどうしようもないときがあるものね。外国選手だって控室でコチンコチンになっていますものね。
兵藤 そうですね。私はレースの前にほかの選手の顔をみましたら、みんな血の気のない灰色をしてましたね。
清川 僕なんか毛布をかぶって寝る一方でした。ところが3分か5分おきにトイレに立ってゆく。
吉野 女の選手もそうですね。いきたくもないのに、いったりしまして……。
菅沼 ローズ(豪州の水泳選手)なんか控室に10通くらい手紙をもってきて読みふけっていたな。
高石 いや、あのワイズミューラーなんかもすっかりあがって固くなるんですよ。優勝絶対の男でもそうなんだな。
遊佐(正) 僕なんか控室で身体がだるくて身のおき場がないというときには、かえって調子がいい。私は妙なことに、あがればあがるほど眠れるのです。試合の前に眠くて眠くてしようがないのです(笑)。そこで横になると夢をみるのです。その夢が、みんなレースの終った夢ばかり。夢がさめて起きて、ああ、これから泳がねばならないんだ(笑)。それは実に嫌な気持でしたね。
川本 南部さんは、ロスアンゼルスのときは初めから三段跳を狙っていたのですか。
南部 いやいや、あれは何で出たのだろう。田島君が出るはずじゃなかったの。よくわかんねえンだが、ガンバレといわれたんですよ。ところが僕は4年間三段跳なんかやっていないでしょう。どうやって跳んだらいいかときいたら、なんでもいい、ホップをうんと跳んで、ステップをもっと跳んで、ジャンプを更に跳べ(笑)。私は本当は幅跳と400リレーが主眼でしたもの。
田島 でもあのときは織田さんが脚を痛めていたし、大島君(鎌吉氏。このときの大会で三段跳3位)は火傷で、ほかに勝てそうなのがいなかったから、キミに期待したんだと思うが。
南部 それで私はドクターの斎藤一男先生のところへいって「今日は三段跳に出るんだそうだから、アキレス腱を切るくらい思いきって跳んでみるから、よろしくお願いしますよ」といったら、先生は、「よろしい。切っても俺がついているから安心して切っちまえ」。ひどいやね。そして試合になったら、手をあげてニッコリ笑っているんだな(笑)。それで、よしきた、というんで跳んだねえ。もちろん優勝するなんて思ってもみなかった。
小池 ロスアンゼルスの陸上は南部さんのひとり舞台でしたものね。
南部 5回目に世界記録を出したんですね。好敵手のスベンソン(スウェーデンの選手)はあと1回残っている。あの野郎、跳ばなければいいがッと内心で祈りましたよ。結局、ダメで僕が勝ったら、とたんに高姿勢(笑)。おめでとうをいいにきたから、ぐっと胸をはって、「いや、世界の三段跳の記録が伸びればいいのであって、誰が勝ってもいいのだ」なんていったけど、腹の中は違うのだな。
忠さん、世界記録だよ
古橋 それで優勝の日の丸があがったときはどういう気持でしたか。
南部 よく聞かれるんですが、ちょうどあのとき吉岡君が走っていたでしょう。そっちの方を眺めていたら、織田君が走ってきて、忠さん、世界記録だよ。ほんとかいなと思っているうちに、スルスルと日の丸があがってしまった。そりゃ幅跳で勝てばこんな感激はない。そのために4年間頑張ったのだもの。ところがそっちで負けて、思いがけないところで勝つ、ピンときませんや。
吉岡 そうですか、そんないいときに私が走っていたのですか。私は実にこのとき気を楽にして走っていましたね。とにかくそれまで日本の男の選手で、トラック競技で第2次予選を通過した人がいなかったばかりでなく、第1次予選でテープを切った人もいなかったのです。それを私がやった。それですっかり調子づいて、決勝まで残ったわけなんですね。結局6位でしたが、トラック初入賞ということで、大へん気をよくしたものでした。
遊佐(幸) “暁の超特急”のいわれは何なのですか?
吉岡 予選、決勝を通して、50mまではいつも私がトップなんです。記録の上からみて、それで50mまではいいが、ということで暁の超特急といわれたんでしょうね。
村社 ロスのころ、私は日本にいて南部さんの放送を聞いたのですが、あれもさきほどの実感放送だったのですか。
南部 ええ、競技がすんで2、3時間あとでしたよ。日本へ向けて放送するから来いというんだな。それで着物を着て悠々と出かけたら、松内則三さんが一所懸命、私の三段跳の実感放送をやっている。そして「唯いま優勝した南部選手がマイクのそばにきました」なんていうのですよ。これには面くらったが、やむなく、私もハア、ハア荒い息づかいで(笑)。「本当に聞こえるのか、聞こえないのかわかりませんが」とやったんです。
河西 松内さんがあとで笑ってましたよ。「余計なことをいうな、聞こえるから金をかけてやってるのだ、と怒ったがね。よく考えると、あのくらいの心臓でないと勝てないのかも知れない」ッて。
村社 私はそのときの南部さんの放送をきいて、実は、何を隠しましょう、次のオリンピックにどうしても出ようと決心したのですよ。27歳でしたがね。あれから4年間、走って走って走りぬいて、ベルリン大会をねらったのです。でも、当時、まさかそんな放送をしていたとは知らなかった(笑)。
田島 実際、講平さんは偉いですよ。27歳から決心したんですからね。
川本 正に大器晩成というわけですね。それでは、村社さん大活躍のベルリンへ話題を移しましょうか。
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source : 文藝春秋 2020年2月号