軍事上の勝利と、政治的勝利のちがいについて

第275回

塩野 七生 作家・在イタリア

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 現代でも各国で使われている「平和」を意味する言葉のすべては、古代のローマ人の言語であったラテン語の、「Pax」(パクス)を語源にしている。イタリア語では「Pace」、スペイン語では「Paz」、フランス語では「Paix」、英語になると「Peace」。日本でも、「ピース」と名づけたタバコが作られたではないか。

 長く続くからこそ平和、という考えは、ローマ人が創り出した概念であって、ギリシア人ではなかったからである。

 あらゆる知的概念を創造したギリシア人だが、平和という理念だけは創り出せなかった。ギリシア民族にとって戦争をしていない状態とは、いずれは再開されるまでの間の、つかの間の休戦にすぎなかった。オリンピアの地で開かれる競技会が、このギリシア人にとって重要な意味を持ちつづけていたのも当然だ。四年に一度、しかも競技が行われる前後のわずか一カ月の間にしても、休戦期間ではあったのだから。

 ところが、同じ古代に生きた民族なのに、ローマ人となるとちがってくる。なぜかローマ人には昔から、敗者となれば討ちのめすばかりではなく、その人々とも融合していく傾向があった。ローマ内部の階級闘争の相手でしかなかった下層民との融和が成ったのを記念して、「コンコルディア」(融和を司る女神)に捧げた神殿まで建てている。地下水でもあるかのように続いてきたこの伝統を、国内だけでなく国外にも広げたのがユリウス・カエサルである。この彼のやり方を、同時代人たちは、「クレメンティア・カエサリス」(カエサルの寛容)と呼ぶようになる。

「寛容」とした日本語訳は、誤訳ではない。辞書にも、心が広くおおらかで他の人々もよく受け入れること、と説明しているのだから。しかし、言語には意訳もあるのだ。だから、「カエサルによる寛容」は、「カエサルによる政治」と考えるのも可能、ということ。

 十年も費やしたガリア戦役で、しかも最後のアレシアでは五倍以上もの敵に対しながら大勝したカエサルは、今ならばフランス全土にベルギー、オランダ、スイスをふくめた広大なガリアの全域を制覇したことになる。軍事的には、文句もいえない勝者になったわけ。だが、ここから彼は、武人から政治家に変貌する。反ローマに起って闘ったガリア兵の全員に、それぞれの故郷にもどって住みつづけることを認めたのであった。

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source : 文藝春秋 2026年9月号

genre : ライフ 社会 歴史