自治体間の移動が禁じられ、工場労働者が戻れない……中国エレクトロニクスの聖地・深圳を襲ったショックは超弩級。日中の経済は緊密で、「中国がくしゃみをすれば、日本が風邪を引く」と言われるほど。中国経済崩壊の波が今、日本を襲う――。
史上最大の隔離
「謎の病気が流行している」。1月初旬、広東省深圳市を訪問していた私はこんなニュースを目にした。湖北省武漢市で謎の病気が発生している。ただし、発症するのは野生動物を食べた人だけでヒト−ヒト感染(人間から人間への感染)は起きていない――確かそんな内容だった。
中国は2002年から翌年にかけて流行したSARS(重症急性呼吸器症候群)の際、情報隠ぺいにより感染を拡大させた過去がある。大丈夫という言葉を鵜呑みにはできない……などと中国の友人と話したが、とりたてて対策はしなかった。旧正月前の浮かれたムードが漂う街をそぞろ歩き、ホールに数百人が蝟集した忘年会に出席するなど、警戒感はゼロだった。この時点で「謎の感染病」への注意が喚起されていたら、おそらく歴史は変わったはずだ。
私が帰国して約10日が過ぎた1月20日、一気に状況が変わった。ヒト−ヒト感染すると説明が180度変わり、習近平国家主席が全力で対策すべしと重要指示を発表した。23日には1100万人の人口を持つ武漢市全域の出入りを禁止する「封城」(都市封鎖)を実施した。おそらく人類史上、最大数の隔離である。後に封鎖区域は人口5800万人の湖北省全域に拡大される。
湖北省以外の地域も「重大突発公共衛生事件一級響応」を発令した。検問や医療施設を設けるために民間財産を徴発する権限を地方自治体に与える、いわば医療戒厳令だ。これに基づき、中国全土で各地に検問が設けられ、発熱している者を捜し出すなど厳しい警戒態勢が敷かれた。住宅団地や農村では封鎖式管理が実施された。居住者以外の立ち入りを禁じ、農村では村境は自警団が立ち、よそ者を追い払うといった、中世さながらの光景が展開された。重要指示からわずか2週間で、ジェットコースターのような変化である。
紙幣をアルコール消毒
新型肺炎は中国の産業、ひいては日本と世界の経済にどのようなダメージをもたらすのか? 現地を取材して確かめたい。そこで私は中国各地の重要都市を飛び回る取材計画を立案した。ところが……。
「その取材計画は無理です」
取材のアポを入れるため連絡した広東省の日本人経営者に、即座に却下された。各自治体が往来を禁じており、外部から来た人間には14日間の自室待機を求める自治体が次々と現れているという。旅行者の場合、政府関係者に指定ホテルまで“連行”され、なかば軟禁されるケースまであるのだとか。
そもそも中国政府は、中国への渡航を禁止しようとする国々に対し、過剰反応だと反発していたはずだ。科学的合理的判断に基づき往来を維持せよと言っていたのに、外部からの訪問者が14日間もホテルに缶詰にされるのはおかしいではないか……と怒り心頭になったが、私がいくら文句を言っても規制が変わるわけではない。
そこで取材計画を練り直し、日本から広東省深圳市に直行直帰するプランを考えた。これなら中国国内の自治体間を移動しないので、強制的に自室待機を命じられずに済む。
深圳市を取材先に選んだのは、北京市、上海市、広州市と並ぶ、中国の主要都市だからだ。しかもエレクトロニクス産業の集積地で、世界経済とのつながりも強い。出発前の情報収集で、地方政府の不可解な規制に振りまわされて疲労困憊したが、2月17日午後1時、私は深圳宝安国際空港に降り立つことができた。
いつもは人でごった返しているが、ほとんど客がいない。静かな空港内で待ち構えていたのは防護服を着た検疫官。非接触型体温計が私の頭に突きつけられ、体温が測られる。取材中、常に不安だったのは熱が出ないかということだった。私は中国に出張すると、2回に1回の割合で風邪を引いてしまう。多くの取材をしようと、ぎっちり日程を詰め込むからだが、今回だけは無理は禁物だ。企業や店に入る時、地下鉄や高速道路の入口など、いたるところで体温を測られる。37.3度を超えていると出歩くことを禁止されてしまう。ズルを禁止するために、薬局で解熱剤を購入するには実名登録が必要になっているという。
ガラガラの深圳地下鉄
幸いにも熱はなかった。人がいないので入国審査もサクサク進める。いつもは長蛇の列のタクシー乗り場もガラガラだ。
そのタクシーは、2月のまだ肌寒い天気だというのに窓を開けて走る。密室だと感染リスクが高まるからだ。前部座席と後部座席の間は透明なシートで遮断されている。きわめつけは支払いで、運転手はアルコールで札を消毒してから受け取った。お釣りを返す時には「ご安心を。消毒済みです」。深圳に到着直後ということもあったが、「これは非常事態なのだ」と強烈に感じさせられた。
あやしい液体を街中に噴霧
移動中、目にしたのは霧炮車(ミスト噴射車両)だ。本来は水を霧状に噴霧することで、PM2.5など大気中のゴミを洗い落とす装置だが、現在は殺菌作用があるという「エコ酵素」なる代物を希釈した液体を撒いている。ただ、エコ酵素とはいったいどういう成分なのか、よくわからない。殺菌作用があるのかすら不明だ。中国の科学者からはニセ科学と批判されているが、鰯の頭も信心からなのか、とりあえず散布しているらしい。ミストを浴びると独特の臭気が残った。
「無接触」スタイルがブーム
到着したホテルも厳戒態勢が敷かれていた。入口で体温を測り、名前やパスポート番号を書いて初めて入館が許される。ロビーの電気は落とされ、まるで廃墟のようだ。フロントにはスタッフが1人だけ。聞くと交代で1人ずつ出勤し、他のほとんどが自宅待機で、あとは昼間に清掃担当が来るぐらいだという。それでも営業しているだけでありがたい。ヒルトングループが中国国内の4分の3にあたる約150軒を閉鎖するなど、外資系チェーンは休業が相次ぐ。中国系も隔離施設として使われ、営業していないホテルも少なくない。
チェックインを済ませた後、ホテルの周囲を歩いた。飲食店は開いている店と閉まっている店が半々ぐらいだ。いつもはレストランなどで取材先と話すことが多いのだが、今回は使えない。取材先の家に伺おうとしても、よそ者の立ち入りはNG。結局、ホテルに来てもらうか、外で立ち話するしかない。開いている店も店内での食事はできず、テイクアウトするしかない。仕方なく、公園で何度か食事する羽目となった。
公園には意外にもかなりの人がいた。毎日家にいるばかりでは息が詰まるのだろう。ジョギングする人の姿が目立った。マスクをつけて走る人々の姿はなんとも不思議だ。並んで散歩する高校生カップルもいた。もちろんマスクはつけている。
新型肺炎流行下の中国で流行語となったのが「無接触」。感染リスクのない安全な無接触宅配、無接触出前など、マンションやホテルの部屋まで品物を運ばずに、入口に置いていく業態だ。大きな住宅団地ともなると、入口に出前用の棚が置かれている。私も深圳滞在中に何度か出前を注文したが、いずれもホテル入口に放置された。高校生カップルもマスクを付け、手もつながずに歩くだけ。清く正しい無接触恋愛だろうか。
1週間で16兆円の損失
街中には緊張感だけが漂っているわけではない。深圳では食料品が不足することもないし、タクシーも地下鉄も走っている。公園を散歩、ジョギングする心の余裕もある。だが、店の閉鎖などによる経済的打撃は深刻だ。街を歩き回っていると、中国経済がどれほどの打撃を受けたかが伝わってくる。
たとえばショッピングモール。店は7割方開いていたが、客の姿はなかった。日本企業「ニトリ」の大型店舗を覗くと、手持ちぶさたの店員たちが突っ立っていた。
家具以上に売れていないのが自動車だ。全国乗用車市場情報連合会の発表によると、2月第1週の販売台数は1日平均でわずか811台。前年同期比マイナス96%という惨憺たる数字を記録した。2月全体でみても前年比マイナス70%という大幅な落ち込みが予測されている。
もっとも、家具や車などの耐久消費財はいま売れなかったとしても、必ず反動で売れる時期がくるはずだ。ただし外食や娯楽などのサービス業は、取り返しがつかない。製造業も、再開後に全力で操業すればある程度の巻き返しはできるとはいえ、限界がある。ダメージは業種ごとにまだら模様というわけだ。
シンクタンクの恒大研究院は、1月24日から30日までの旧正月休み期間中に人々が外出をひかえたことによって、飲食・小売産業が5000億元(約8兆円)、旅行業が5000億元、合わせて1兆元(約16兆円)の売上が失われたと分析している。そこから3週間近くがたった後でもこのありさまなのだから、今後損失がどこまで膨れあがるのかは予想もつかない。
日本でも人気の中国ナンバーワン火鍋チェーン「海底撈」は、全店舗を閉鎖した。毎日10億円もの損失が出ている状況だという。一般市民の立場からすると、食品流通は確保されている上にスマホアプリからの出前注文もできるため、さほど困ってはいない。だが飲食店の立場に立てば、いくら出前やテイクアウトがあっても、平常時の売上と比べればたかが知れている。
中国政府は景気対策に力を入れ、低金利融資、テナント料の減免、税金や社会保障費の納付期限延期といった対策を矢継ぎ早に打ち出している。海底撈も21億元(約330億円)もの与信枠を獲得、資金繰りに問題はない。ただし、夫婦経営の小店舗にまで支援が及ぶかは疑わしい。そうした中小零細企業こそが雇用を支えているだけに、非正規労働者をいかに救うかは大きな課題となりそうだ。
深圳在住の、ある日本人経営者はこう解説する。
「タクシー運転手やマッサージ師といった、日銭で稼いでいる人々が焦っています。タクシーは感染リスクが高いのに、相当の台数が走っているでしょう。正社員と違って働かなければ稼ぎがゼロだから、やむなく出ているんですよ」
夜の商売も干上がっている産業の1つだ。この経営者が行きつけだというカラオケ店のママは「規制なんか関係ない。来週には営業してやる! 逮捕されてもいい」と怪気炎を上げているという。
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source : 文藝春秋 2020年4月号