数学はあらゆる学問の基礎ともいえる学問だ。しかし、今行われている数学教育は「数学の本質的理解」を促すものではない。暗記重視の勉強法、マークシート方式のテストで育った子供たちは論理的な思考を持たない。そんな子供たちが増えた日本の末路とは。
「暗記だけの数学」をやった子供の末路
最近、社会の根幹を揺るがしかねない、数字や統計の改定がいくつも明らかになったことに皆さんお気づきでしょうか。
例えば、昨年、明るみに出た、厚生労働省の毎月勤労統計調査の不正です。毎月勤労統計は、主に賃金算出の元になる数字です。この調査に際して、対象となる事業所の全数ではなく3分の1の抽出調査で済ます規則違反が行われていました。さらに、適切な統計処理も施されていませんでした。この結果、雇用保険などが過少給付されていたのです。
また、2016年には、日本経済の基幹統計であるGDP(国内総生産)に民間企業の研究開発費用等が加わったり、あたかも経済成長が持続しているように見える数字の修正となり、日本は好景気が続いている、ということになりました。
さらに、待機児童の数をゼロだとアピールする自治体では、自治体が補助する認可外施設を利用する子どもを“待機児童”から外すなど、算出方法を改変するケースも見られます。数字上、ゼロにしたところで問題は解決しないのに、です。
芳沢氏
こうした例はおそらく氷山の一角でしょう。なぜ、数字の結果だけ整えばそれでOKというようになってしまったのか。それは日本人の「言葉の定義から始まるプロセスを大切にする数学の精神」が形骸化してきたからです。
かつて私は、数学者として純粋数学に専念していました。しかし、現在では、数学の大切さや面白さを学生たちに伝える教育活動に力を入れています。きっかけは、90年代後半に導入されたゆとり教育に危機感を持ったことでした。
1999年に『分数ができない大学生――21世紀の日本が危ない』(東洋経済新報社)という書籍が発売されました。分数の割り算や通分など小学生レベルの算数を、大学生ができなくなっていることを指摘した本です。私は当時、この本の代表編著者である京都大学の西村和雄先生と共に、学力低下をもたらすゆとり教育の危険性を強く主張しました。
その後、出前授業や教員研修会など、25年近い数学教育活動の中で、全国400カ所以上を回りました。その活動を通して感じたのは、「数学の理解力と論述力」の低下です。
昨年、わたしは『「%」が分からない大学生』(光文社新書)という本を出し、日本の生徒や大学生の、数学の理解力と論述力の著しい低下と、数学教育の欠陥に警鐘を鳴らしました。「暗記だけの数学」の末路が大学生に現れているのが今の日本なのです。
「く・も・わ」
「%」がわからないというのはどういうことなのか。例えば、次のような簡単な問題があります。
Q 2億円は50億円の何%ですか。
2を50で割った商の0.4を100分率に直した「4%」が答えです。
非常にシンプルな問題ですが、15年ほど前から、このような基本的な割合の問題に答えられない学生が増えています。他大学の教員の話を総合すると、平均的な私立大学文系学部の学生の2割は間違えます。最も多い間違いは、50を2で割って、25%とする誤答です。
皆さんは、「く・も・わ」をご存じでしょうか。小学生から大学生にまで広く使われている図です。「く」は「比べられる量」、「も」は「元にする量」、「わ」は割合のことで、「元にする量×割合=比べられる量」という式を視覚的に表しています。
「く・も・わ」の図
円を書き、上半分に「く」、下の左半分に「も」、残った右半分に「わ」と書きます。円を上下に分ける横線は「÷」、左右に分ける縦線は「×」を意味します。これは、求めたいものを隠し、残ったふたつを計算すれば答えがでる、という図です。
例えば、「比べられる量」を求めるには、円の下半分にある「も」と「わ」を掛けます。また、「元にする量」を求めたいときは、「も」を隠すと、上の「く」と下右半分の「わ」が残るので、「比べられる量」÷「割合」を計算します。
しかし、この図は、数学の本質的な理解を促すものではありません。%とは何か、を理解しなくても、「く・も・わ」に数字を入れれば答えが導かれるからです。問題文を読んで、どれが比べられる量でどれが元の量なのかわからない生徒は、誤った答えを出してしまいます。
「2億円は50億円の何%ですか」という問題に、50を2で割って、25%と答えた学生は、50と2のどちらが比べられる量でどちらが元にする量かわからないまま、適当に数字を「く・も・わ」にはめ込んでいるのです。
正答率が約2割落ちた
ある高校への出前授業で、時速60㎞で10分間移動すると何㎞進むか、という問題を出したことがあります。答えは当然、10㎞です。しかし、60に10をかけて適当に単位を付けた誤答も多くありました。
このような信じられない誤りを書く生徒に限って、「く・も・わ」と似ている「は・じ・き」の図が解答欄に書かれているのです。「は・じ・き」とは、「速さ」を「は」、「時間」を「じ」、「距離」を「き」で示した図で「速さ×時間=距離」を示しています。こうした傾向は年々、強くなっています。
Q 10%の食塩水を1000g作るために、「必要な食塩」と「必要な水」の量を答えなさい。
これは、2012年度の全国学力テストで出題された中学3年生向けの理科の問題です。
この場合、1000gの10%は100gですから、答えは「食塩100g」、「水900g」です。正答率は52.0%でした。
実は、1983年のテストでも、食塩水を100gに設定した、同じ問題が出題されました。このときの正答率は、なんと69.8%。
30年間で正答率が約2割も落ちたのです。
「く・も・わ」式の暗記で育った子どもは、「とりあえず、式を暗記して、意味の理解は後回し」にします。そのうえ、数学に苦手意識があるので、解けないと思うとすぐに答えを見てしまう。自分で考えることを諦める癖がついているのです。
プロセスを軽視し、論理的に考えない傾向は、大変危険です。「%がわからなくても生活できる」と言う方もいますが、数学が役に立つ、立たないというレベルの問題ではありません。日本社会の劣化であり、国力の低下なのです。このままでは、日本は世界に食い物にされるという危機感を、私は抱いています。
読解力の低下
なぜ数学のレベル低下が国家の危機になるのか、大げさな話だと思われる方もいることでしょう。しかし、まず、ご理解いただきたいのは、数学はあらゆる学問の基礎ともいえる学問だということです。
数学の本質は、計算や公式などではなく、論理的思考力です。客観的な数字を使って、一歩一歩、結論へと導くことが重要です。
しかしいま、大学生はもちろん、社会人にも、数学的思考を理解しない方々が増えています。「答えが合っていればいいんでしょう?」という、恐ろしい価値観が蔓延しているのです。その1例が「く・も・わ」であり、冒頭でご紹介した数字のつじつま合わせやごまかしです。
数学的思考、つまり論理的思考力が低下するということは、問題を筋道立てて考え、それをきちんと他人に説明する力がなくなっている、ということです。
こうした、論理的思考力の低下は、読解力の低下をもたらします。
2018年に行われたPISAという国際調査で「日本の読解力が急落した」というニュースを覚えている方もいらっしゃるでしょう。
PISAはOECD(経済協力開発機構)が加盟諸国の学習到達度を調査するため、15歳を対象に3年ごとに行う試験です。PISAの「読解力」の成績が、2012年4位から、2015年8位、2018年15位と続落しました。
読解力の試験では、論理的・科学的なテキストをもとに自分の考えを自由に記述するものが弱いのです。
そのような試験で必要なのは論理的に読み、理解し、そして書く力です。問題文を読み解き、その問に対して、誰にでも理解できるように結論へと導くという作業は、数学の証明問題と本質的に同じです。
ちなみに、読解力の点数が急落した結果を受けて、「だからもっと小説を読ませるべきだ」と主張する方がいますが、筋違いです。出題の狙いは、ロジカルな文章を理解・検討する能力です。人の気持ちや物語の背景を読み解く小説とは、文章の種類が異なります。
マークシート脳の学生たち
日本の子ども達の数学的、論理的思考力が落ちた原因は3つあると思います。「ゆとり教育」、「マークシート方式の試験」、そして「数学嫌いの増加」です。
まず、ひとつ目のゆとり教育について説明します。
ゆとり教育は、従来の詰め込み教育への反省から、ゆとりを持った授業で生徒の考える時間を増やそうという意図から始まりました。
1998年の指導要領改訂で、学校の完全週5日制の導入や教育内容の3割削減などの目標が設けられました。驚いたのは、残った7割の内容が、当初はゆとり教育の「上限」だったことです。それ以上、勉強してはいけないという、どこかの国の文化大革命のようでした。
授業時間も内容も3割減になり、生徒たちが学ぶ内容は実質、以前の10分の1程度になった印象でした。
ゆとり教育では、「2桁同士の掛け算ができれば、3桁同士もできる」という根拠のない考えのもと、小学校では2桁同士の掛け算しか教えないことになりました。
一時、円周率が「3」になったという話をよく聞きましたが、これも、3桁同士の掛け算を教えられないので「3.14」は使えないということだったのです。
授業が減ったことで、愛知県や神奈川県など、高校の数学教員が採用ゼロになる県もありました。数学は計算機でできるから、数学の教員は役に立たない、あなたの机はない、家庭科の教員免許を取ったら残してあげると言われた人もいました。テレビニュースでもエプロンを着た元数学教師が面白おかしく取り上げられ、まるでさらし者でした。
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source : 文藝春秋 2020年4月号