「教育格差」が格差社会を加速させる

特別企画 ニッポン教育再生会議

中室 牧子 慶應義塾大学教授
松岡 亮二 早稲田大学准教授
ニュース 政治 教育
「身の丈に合わせて頑張って」。萩生田光一・文科大臣の発言で「教育格差」の存在に注目が集まった。いまの日本は「凡庸な教育格差国」である。この現実を直視しなければ将来はない! 教育の専門家2人が問題点、解決策を語り合った。

教育政策の決定過程が適当過ぎる

 中室 松岡先生が昨年出版された『教育格差』(ちくま新書)、評判がよいようですね。

 松岡 おかげさまで、9刷で4万部を超えました。

 中室 昨年10月、萩生田光一文部科学相の発言は「教育格差」に注目が集まる一つの契機になったのではないでしょうか。ご承知の通り2020年度から始まる予定だった大学入学共通テストでの英語民間試験について「自分の身の丈に合わせて頑張ってもらえば」と発言しました。これに対し「教育格差の容認ではないか」と批判が集中、大臣は謝罪し、発言の撤回に追い込まれました。これで入試改革自体が政治問題化し、昨年末にかけて英語民間試験と記述式問題という「改革の二枚看板」の見送りが決まりました。

 松岡 「身の丈発言」はもちろん不適切な発言だったと思いますし、教育格差についての認識は大臣でもその程度なのか、と肩を落としました。ただそれよりも「批判が強まったのでとりあえず延期」みたいな場当たり的な対応にも既視感があったので危機感を持っています。この国の教育政策の決定過程は、率直に申し上げますと非常に適当で、まっとうなデータによる現状把握に基づいていません。個人の見聞レベルの現状認識でもっともらしい方向性だけ決めて突っ走るから今回のようなことになるのだと思います。

 中室 教育格差を容認した大臣の失言と入試改革そのものの妥当性は、別の議論であるべきものです。事前に、パイロットテストを行って、入試改革によってどのような効果が期待できるのかということを明確にしておけば、仮に、大臣が失言したり、大臣が交代になったりしても、政策は存続したのではないかと思います。

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批判の声が高まり英語民間試験導入は延期に

改革のやりっ放し

 松岡 中室先生が指摘されてきた「エビデンス(科学的根拠)に基づく教育政策」が必要ということですよね。ところが日本では、学校現場の視察や聞きかじった話に基づいた「これからの教育」論が散見されます。もし数百の学校を視察していたとしても、無作為に選んでいないのであれば偏った「現場」です。つまりエピソードで政策の方向性が論じられているわけです。

 中室 おっしゃる通りです。今回の入試改革に限らず、戦後の教育行政はこの繰り返しではなかったかと思えます。「ゆとり教育」や「子ども手当」のように、時代の要請に応じて始まったものの、まるで流行が廃れるかのように終わってしまった教育政策は枚挙にいとまがありません。ゆとり教育も子ども手当も、今回同様、パイロットテストが行われませんでしたから、子供たちの学力・学歴・年収などの成果にどのような効果があったのかなかったのか、学術的には、いまだに定見がないという状況です。

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松岡氏

 松岡 ただ、そもそも教育政策は最終的な結果が出るまでに常にタイムラグが生じる点は確認しておくべきだと思います。少なくともある政策が実施され、大半の子供が教育を終え社会に出てから客観的に検証可能になるまで20年はかかります。ところがその政策をやると決めた当の政治家や官僚は大体60歳やそれ以上なので、結果がわかるころにはもう引退している。だからある政策に対して、当時の政治家や文科省担当者が悪いと個人の責任を追及することにあまり意味はありません。

 中室 仮に自分たちの政策が失敗だったとわかったとしても、責任の追及の仕様がないわけですよね。

 松岡 結果がすぐに顕在化しないので、政策を決める人たちは「明治以来の改革だ!」のように勇ましく大きな花火を打ち上げても責任が追及されることはありません。そしてその世代が引退したころにはまた下の世代が「世界の変化に対応するために新たな改革だ!」と派手な言説が出てきて、結果が出るころには彼らも既に引退という「改革のやりっ放し」が繰り返される。これが根本にあると思います。

 中室 私には、今回の大学入試改革の根底には、かつてのゆとり教育と同じ問題意識があるように思えます。つまり、暗記に頼った詰め込み型の教育から脱し、より思考力や表現力を重視した教育に転換せねばならないということです。時代の変化を考えると、この方向転換に異議を唱える人は少ないと思うのですが、結局、ゆとり教育は途中で頓挫し、大学入試改革もまた無期限での見送りとなっています。

答え合わせは20年後

 松岡 要は日本の教育政策には過去の政策からの「学び」がないのです。後々その政策が狙い通りに機能したのか、検証できるだけの客観的なデータを取得していないことが最大の問題点です。大きな改革の最終的な「答え合わせ」は20年ぐらい子供たちの成長を待つことになりますが、事前に綿密な調査計画があれば、短・中期的な目標とそれらが達成できたかの分析は可能ですし、必要です。

 例えばゆとり教育は本当に失敗したのか、研究者が検証しようにも、そのためのデータを取っていないから他の用途のデータや取得可能な地域データによって間接的かつ限定的な評価をするしかありません。今回の入試改革でも、制度を変更する前に具体的なデータ取得計画が立てられていないようです。本来であれば「改革」の前に、短・中期的にこういう結果を目的にして、そのためにはいつどのようにして何を計測するのか、といった計画があるべきですし予算も付けるべきです。これは「改革を実行する」こと自体が目的であって、効果を検証するつもりがないことを意味します。投薬や手術の後、経過観察をしないようなものです。どんな人にどれぐらい効いたのか、副作用があったのか。そういう検証をしていないので次の政策にも活かされない。こうして「改革のやりっ放し」が続くわけです。

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 中室 米国では予算を要求する時に、その政策にどの程度の効果があるか(これをエビデンスと言います)を提示することが求められ、そのエビデンスの確からしさに応じて予算額が決まっています。また予算のうち数%は、エビデンスを作るために用いられる決まりになっています。

 松岡 同じような失敗を回避できる可能性が上がるわけで、そう考えれば大した金額ではないですよね。

 中室 例えば、小中学校で1人1台のPCを整備する計画が進んでいますが、これにどのような効果があったのかを検証することにお金を使うより、1台でも多くPCを買うことにお金を使ったほうがいいという考え方も根強くあるようです。しかし、データは道路や水道と同じく私たちの社会にとって重要な「インフラ」であり、効果検証の結果は「知的な公共財」です。ある政策が、他の政策と比較しても十分に効果を上げたといえるか、効果があったとしたらそのメカニズムはどのようなものかということがわかれば、今後の重要な道標となるからです。

凡庸な教育格差社会

 松岡 日本では、データをしっかり取得・分析して「社会の現状がどうなっているか」を把握しようとする情熱がすごく弱いです。

 中室 確かに、問題の所在がはっきりしないままに、たくさんの対策が打たれている例を見ることが多い。例えば、不登校やいじめ、暴力が増加している原因がはっきりしないのに、思いつくままに対策が打たれているというようなケースです。

 松岡 教育は結果が出るまで時間がかかるので、政策が的外れでも空が割れるわけでもないし人が大量死するわけでもありません。しかし、実際には子供たちの可能性という血は毎日流れています。このままでは「生まれ」によって人生の可能性が大きく制限されている現状が繰り返されてしまう可能性が高いことを多くの人たちに知っていただきたくて、『教育格差』を書きました。

 詳しくは拙著に様々な視点によるデータをまとめましたが、端的に述べますと、戦後日本社会はいつの時代も、「出身家庭の社会経済的地位(経済的・文化的・社会的要素を統合した地位)」と「出身地域」という、本人が選んだわけではない「生まれ」によって最終学歴が異なる「教育格差社会」です。日本全体を対象とした大規模社会調査のデータを分析すると、出身家庭の社会経済的な状況に恵まれなかった人や地方・郡部の出身者が非大卒にとどまる傾向が、どの世代・性別でも確認できます。こうした日本の教育格差を経済協力開発機構(OECD)のデータで国際比較すると、OECD諸国の中では平均的です。つまり日本は国際的にみて「凡庸な教育格差社会」だといえます。

 中室 社会学だけではなく、経済学もまた「教育格差」を研究対象にしています。最近の研究では、住民税の支払い記録と国勢調査を照合し、貧困世帯の子供が、「親よりも所得が高くなる確率」(=貧困の世代間連鎖から脱出できる確率)を推定し、これには大きな地域差があることを発見しています。つまり、貧困の世代間連鎖が生じやすい地域とそうではない地域があるのです。そして、政府が引っ越しのためのバウチャー券を提供し、貧困の世代間連鎖が生じやすい地域から子供が幼少期のうちに引っ越しをすれば、大人になってからの学歴や経済状況が改善することもわかっています。

 これは米国のデータを用いて行われた研究ですが、日本ではこのように格差のメカニズムそのものに焦点を当てた研究は多くありません。教育現場でも、教育格差の議論はタブー視されているように感じます。

 松岡 教育格差の存在を感じている人は多いと思いますが、日本では「生まれ」による格差が目に見えづらいからこそ社会問題化しにくい状況があると私は考えています。たとえば高校だと、偏差値60以上の進学校と偏差値40以下の「教育困難校」では、生徒の「生まれ」が平均的には大きく異なりますが、大半の生徒の見た目は同じです。でも、進学校と「教育困難校」に通う生徒を比べると、たとえば親の学歴はかなり違います。高校によって生徒の「生まれ」は全然違うのに、それが「見た目」ではわからない。そのため、高校受験の結果は個人の能力や選択によるものだと見なされてしまうという解釈です。

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source : 文藝春秋 2020年4月号

genre : ニュース 政治 教育