尾身茂、押谷仁、西浦博。これは、未知のウイルス、そして国民と政府を相手に奮闘した3人の男の「闘い」の記録である。この4カ月、いったい何が起こっていたのか。
「科学と政治」の境界で
その男は「速足」である。
この4カ月、日本の新型コロナウイルス感染症対策の中心で動き続けたその男、東北大学大学院教授の押谷仁(61)は、山岳部に所属した学生時代は年間100日、今も50日は山に登ると言われる。健脚なのだ。
ようやくつかまえたのは5月21日、首相官邸の斜め前に位置する中央合同庁舎8号館だった。42府県までの緊急事態宣言解除の政府方針を了とした基本的対処方針等諮問委員会が散会した直後、会議室から出てきた押谷は不用意にコメントしない姿勢を貫いた。だが、ある問いかけにだけ、本心を口にした。
「あれは出すべきではなかったと思う。出すなって僕は言ったんだよ」
押谷仁教授
――訊ねたのは、厚生労働省クラスター対策班を押谷とともに率いる北海道大学大学院教授の西浦博(42)が「対策を打たなければ死者は42万人になる」とはじいた試算のことだ。西浦は感染拡大期には「8割おじさん」の愛称で注目を一身に浴びた。だが、感染者が目に見えて減る時期に入ると、「おおげさだった」「政治的な思惑で煽った」という批判が向けられるようになっていた。
ただ、理由を問う隙を与えてはくれず「次の予定が」と小声で言った押谷は鋭角にターンし、速足でエレベータの扉の向こうに消えた。
日本の死亡者数は、5月末の段階で900人弱にとどまる。米国より3桁、ドイツより1桁少なく、人口10万人あたりで比べれば韓国と変わらない。医療崩壊したかどうかはさておき、ひとまずは「命の選別」という最悪の局面を迎えずに済んだ。未知のウイルスに対しては、専門家の知識がなければ向き合うことすらできないが、日本でその最前線を担った押谷と西浦には、「科学と政治」の境界のどこに位置を取るかをめぐる葛藤がずっとつきまとっていた。
クラスター対策班の分析をもとに新型コロナウイルス感染症対策専門家会議が提言をまとめて会見、最後は政府が決定する――これが建前だが、国民の不安に応えるように頻回に専門家の会見が行われ、いつしか専門家が政策決定しているかの如く誤解されるようになった。
数理分析を通じ見えないウイルスを国民に可視化して見せた西浦、クラスター対策という日本独自の戦略を打ち出した押谷。2人の研究者は、やがて批判の矢面に立たされた。
それは専門家の取りまとめ役としてマイクを持ち、あるいは“暫定的な科学顧問”として、安倍晋三首相の記者会見に陪席した専門家会議副座長(諮問委員会会長)の尾身茂(70)も同じだった。
厚労省内の詰め所
5月下旬まで、日比谷公園に面した中央合同庁舎5号館の11階と12階に、それぞれ30坪足らずの2つの会議室があった。厚労省クラスター対策班の詰め所だ。疫学解析で戦略を担う、押谷率いる東北大・新潟大・長崎大などの混成グループと、数理モデルによるデータ解析を担う、西浦の北海道大学のグループがそれぞれ陣取り、合わせると30人ほどのチームになる。
政府が新型コロナ対策の基本方針を定めた2月25日、加藤勝信厚労大臣の参謀としての機能を期待され、専門家を取り込むかたちで設置された。ここから接触者調査のプロたちが、クラスターが発生している地域の支援に派遣される。省内に置かれた専門家による暫定版「危機管理センター」である。
当初から押谷はこれを評価した。
〈今回、ようやく専門家が政府の中核に入りました。多分こういう危機管理って、日本で初めてじゃないかと思います。(略)今後の日本が目指すべき1つの姿じゃないか〉(日経サイエンス5月号・2月26日に行われた脇田隆字、尾身茂との座談会での発言)
2009年の新型インフルエンザ・パンデミック対策を総括する会議の議長も務めた専門家会議メンバーの岡部信彦は「専門家の判断に耳を傾けるために組織の指揮命令系統に彼らを組み込んだことは09年に比べれば進歩」と評価する。
岡部氏
11年前の危機管理を担当した官僚はもう組織の中枢にいない。審議会に諮問し答申を受ける従来型の行政では、パンデミックに追いつかないからだ。ただ、取材を進めると、「ハリボテですよ」という苦笑にも接した。部屋に出入りした研究者の1人が証言する。
「初歩的な情報を整理するのに膨大な時間を費やしていました。自治体のウェブサイトで判るのは〈××県・60代・男性〉程度だから、地元紙の記事でもっと具体的な所在地とか職業を調べて、エクセルに入力するんです。しかもその検索作業を、医師免許を持つ高度な人材がやっていました。地方衛生研究所が調べた生情報は、国立衛生研究所で集約されているはずなのに、情報の取り扱いのルールが壁になっていた」
中枢部を任されているとは思えない手作業を強いられていた。
理論疫学家の野心
朝の陽光が差し込む会議室に、もう片方の“室長”である西浦を訪ねたのは、政府が緊急事態宣言解除に向け急速にアクセルを踏み込み始めていた5月8日。なし崩し的に進む休業要請の緩和の判断に小さく嘆息したが、すぐに訥々(とつとつ)と語り始めた。
「もちろん、データを分析してエキサイティングなこともあるし、研究室のメンバーにもいい経験になる。でも本音を言えば、感染症の流行が起こっている中で決定権限なんて何もないのに責任を問われる。厚労省の中にいていいことなんてほとんどないんです。ただ、自分を育ててくれた国ですので、その国が従来通りの行政対応だけに終始して、みすみす流行するのを黙って見ているわけにはいかなかった」
西浦博教授
西浦は大阪生まれの神戸育ち。ソーラーカーやロボコンを愛する科学青年だった17歳の冬、阪神・淡路大震災が起きた。変わり果てた町で、支援活動に心血を注ぐ医師たちに心を打たれて医師の道を志した。
進学した宮崎医科大学(現・宮崎大学)在学中、途上国でのポリオ撲滅プロジェクトに参加して、感染者1人から何人に広がるかを意味する「基本再生産数」を知る。つまりは理論疫学と出会ったと、科学技術振興機構HP掲載のインタビューに答えている。数理モデルは、感染症がどのように伝播し、感染者がどの程度の期間で発症し、重症化するか、その過程を数式で表現する学問だ。応用すれば未来予測ができる。
熱量に満ちた男だ。新しい学問である理論疫学の中心は欧州で、日本には指導者がいない。そこで第一人者がいる英インペリアルカレッジロンドンに客員研究員として潜り込み、以降、ドイツ、長崎、オランダ、香港と国内外を渡り歩いた。
ユトレヒト大学の研究員だった09年に新型インフルエンザがパンデミックになると、〈致死率が1957年のアジア風邪並み〉と算出したり、〈成田の空港検疫は国内感染を遅らせる効果が最大でも半日に止まる〉と実証的に示したりした。
13年、東京大学大学院医学系研究科准教授に就任。4年前には北海道大学に研究室を持った。欧州時代から親交があり、押谷のつてで対策班をサポートする東北大学大学院教授の中谷友樹(空間疫学)が証言する。
「西浦さんは毎夏、10日間にわたって東京・立川にある統計数理研究所で希望者に数理を教える合宿を無料で開催しています。自分の研究が社会に役に立つと信じてひたむきになれる、素敵な人です」
中谷氏
公衆衛生学を日本の医学部という地平で見渡せば、学生が多く集まる場所ではない。とりわけ未開拓の数理モデル研究を世に広める――これを仮に野心と呼ぶならば、コロナ危機は最高の舞台といえようか。
「なんだ!」と声を荒げ
国内での流行を予感して上京した2月上旬、西浦が感染者のデータを扱える役所の身分をもらおうと加藤大臣に面会すると、集団感染が起きていた横浜港のクルーズ船対応でおおわらわだった通称ダイヤモンド・プリンセス部屋に案内された。
「さまざまな推定をしました。とりわけ下船時に陰性と判定された後に発症する人を推定したら、試算がたまたま当たりましてね。それで信頼を得て、頻繁に大臣室にも行くようになったのです」
間もなく、西浦はクラスター班の一翼を任され、専門家会議にも出席を許された。4カ月の間に、家族の待つ札幌の自宅に戻ったのは2度だけ。厚労省に深夜まで残ってはビジネスホテルに寝に帰る生活の中で、体重を10キロ以上も増やすほどの重圧にさらされることになる。
専門家会議副座長の尾身茂(地域医療機能推進機構理事長)に会ったのは、5月22日の夕刻だった。
前日には、東京など5都道県を最後に、宣言を全面解除する可能性を安倍首相自ら示唆していた。尾身はこの4カ月を「がむしゃらに全力疾走という感じね」と総括した。
会議には、尾身や押谷ら12人の構成員のみならず、西浦のような公式メンバー以外の専門家も随時参加した。ウイルス学の国際的な研究者や臨床医など経歴の違う者たちの議論は、時に紛糾したという。「ケンカ、激論もしました。『提言すべきだ』『エビデンスがない』とやり合い、『なんだ!』と声を荒げもした。それだけ役に立ちたいという思いが強いグループだった」と尾身は言う。
尾身茂副座長
数えて見れば、緊急事態宣言が解除されるまでに「分析・提言」を6回、「見解」を3回、「要望」を1回――平均して十数日に1度は何かを発し、その後、尾身を核にして開く記者会見は度々2時間を超え、終了時刻は夜半を過ぎることもある。
初会合はクラスター班発足より9日前の2月16日だが、尾身によれば、さらに遡って2月初旬にはすでに厚労省から相談を受けていた。
「こういう考えでいいかという諮問が早朝、夜中を問わずありました。ただ、次第に諮問に答えるだけでなく、我々専門家としての情報分析・提言を積極的にやらないと役割を果たせないのではないか、という感覚が強くなってきたんです」
ブログに書いた現状分析
先頭でトップギアに入っていたのは「速足」の男、東北大学の押谷仁だろう。疫学解析のプロで、この時期には感染者データを見つめ、その評価をめぐって厚労省の西浦と頻繁にメールを交わしていたと、後の学会報告(3月29日・公衆衛生学会研修会)で明かしている。
後にクラスター対策に結実する戦略を探りあてようと頭脳をフル回転させ、原稿用紙5〜10枚分相当の現状分析の論考を、数日置きに研究室のブログに書いた。対応の難しいウイルスと向き合う考え方や、医療体制が脆弱な日本が第2の武漢になるリスクがあることなど、一般人でも理解しやすい、骨太の論考である。
マニラにあるWHO西太平洋地域事務局で出会って以来20年以上の付き合いになる尾身は、スイッチが入った時の押谷をこう評する。
「理性とか責任感とかいう以前に、精神的、肉体的にこれを何とかしたいという気持ちが突っ走るという感じ。寝食を忘れてやる。感染症にすべてを捧げている」
作家の瀬名秀明との共著『パンデミックとたたかう』によれば、押谷は国立仙台病院(現・仙台医療センター)の研究員だった91年から3年間、ウイルス研究のため、妻と2人の子を連れザンビアに赴任。3人目は現地で授かった。麻疹やコレラで数千人が毎年亡くなる環境下で調査にあたった後、米テキサス大学に留学した。医療事情の改善にはウイルス学でなく、公衆衛生学を修める必要があると痛感したからだ。
〈医者の考え方は、一人の人に対していかに最善を尽くすかという考え方ですよね。それが、公衆衛生学では、人間の集団として何がベストかという考え方をする。(略)社会全体としていま何を優先して考えなくてはいけないかとか、社会の中でこの問題をどう考えるか〉(前掲書)
公衆衛生上必要な情報公開や渡航自粛といった対応策は、しばしば国家の利害と対立する。時には、政治権力や大衆と対話を保ちつつ突破口を探らねばならず、心理学や戦略的な思考も求められるのだ。
押谷氏。専門家会議にて
押谷が注目を集めたのは、WHOでアジア地域の感染症対策の責任者だった03年、重症急性呼吸器症候群(SARS)と対峙した時だ。
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source : 文藝春秋 2020年7月号