日本経済の未来は「不安感の払拭」にかかっている。政府の「基本的対処方針等諮問委員会」メンバーの経済学者が明かす、日本経済復活への道程とは。
小林氏
財政で支えなければ
5月25日、全国で緊急事態宣言が解除されました。私は5月中旬から、政府の「基本的対処方針等諮問委員会」の一員として、他の3人の経済学者と共に解除の是非について議論に加わっています。私たち経済学者に求められているのは、会長の尾身茂先生をはじめとした感染症の専門家十数人が示す方針に対して、「経済的にはこのような影響があります」と意見を述べることでした。
今回の解除に異論はありませんが、これは決して「終息宣言」ではない。感染症対策だけを考えるならば、緊急事態は継続すべきだったかもしれません。しかし、「外出自粛・休業要請」を続ければ、戦後だれも経験したことのない深刻な不況を招くことも予想されました。
1998年の金融危機の後、それまで2万人台だった自殺者が3万人台まで増え、その後、14年間にわたりこの水準が続きました。つまり、この14年間で十数万人も自殺者が増えたわけです。
感染危機による経済的なダメージは、金融危機の時よりもはるかに大規模で広範囲に及んでいます。「外出自粛・休業要請」で感染症による死者数を減らせたとしても、経済苦による自殺者数がそれを上回ってしまっては、政策としては失敗です。
緊急事態宣言の解除は、政府にとっても、いわば苦渋の決断だったのです。
コロナ対策を担う西村康稔経済再生大臣は経済産業省時代の先輩ですが、諮問委員の就任を打診された際、こんな念押しをされました。
「財政再建派の小林君を委員にしたら、経済対策を減らせと言うのではないかと心配する声が上がっているけど、そんなことないよね」
私はこう答えました。
「長い目で見れば、財政のバランスは重要です。ただ、少なくとも、コロナ危機が続いている間は、財政を引き締めるべきではありません」
本音を言えば、政府のお金の使い方は足りないと思っていたくらいでした。未曽有の国難にあるわけですから、現金給付の金額や回数を増やすなど、苦境にある個人や企業を、もっと財政で支えなければなりません。いま財政出動を渋っては、家計や企業の傷を拡げ、経済の悪化が長引く。すると、将来の税収が減って、財政はもっと悪くなります。非常時の今は、財政支出を増やすことが将来の財政健全化への近道です。
経済低迷の原因は「心」
誤解をしてはいけないのは、緊急事態宣言が解除されても、経済がすぐ元通りに回復するわけではないということです。有効な薬がない以上、「町に出かけると感染するかもしれない……」という不安は根強く残るでしょう。実際、緊急事態宣言が解除され、店を開けても、客足は戻らないでしょう。海外でも、例えば、フランスでは外出制限が解除されても、電車やバスの利用者は平時の3割程度にとどまっています。
なぜ、元通りにならないのか。それは感染拡大による経済低迷の本質的な原因が、人々の「心」にあるからです。
これから夏にかけて、多少、感染者数が落ち着くかもしれません。ただ、秋から来年の春にかけては第2波、第3波がやってくると言われています。そうなると、また緊急事態宣言が出される。それによって感染者数を抑制できても、自粛解禁後に再び感染拡大が起こり、そして3度目の緊急事態宣言……と、緊急事態の「オン・オフ」が繰り返され、人々の不安感も「オン・オフ」の繰り返しになる恐れがあります。
ワクチンが世界中に普及してコロナが完全に終息するまでには少なくとも2年以上かかるとみられています。それほどの長期間、断続的とはいえ不安感が続けば、何が起こるか。消費も投資も戻らず、結果として大量倒産と大量失業が発生して日本経済は崩壊してしまうでしょう。経済は前向きの展望があって初めて回っていくものだからです。
消費者の不安感が経済に及ぼす影響については、ノースウエスタン大学のマーティン・アイケンバウム教授たちの研究でも示されています。人々が感染リスクを恐れて行動を変える理論モデルでシミュレーションすると、消費は17%も悪化しました。これに対して感染不安がなければ、感染症が流行していても1%強しか落ち込みません。これは不安感を払拭できれば、消費意欲が回復することを意味します。
国民の不安感の解消――これこそが最優先の経済対策だと私は考えています。
無症状の感染者を減らせ
「外出自粛・休業要請」で不況を甘受するか、経済を再開して感染拡大のリスクを受け入れるか――これまでコロナ対策というと、こうした二者択一の議論に陥りがちでした。しかしこれではどちらを選んでも犠牲が大きい。今後は、経済回復と感染防止を両立する「第3の道」を目指さなくてはなりません。
国民の感染不安をなくすには、次の感染拡大に対応できるだけの十分な量の医療体制と、市中感染を抑え込む検査体制の拡充が必要です。
まず、医療体制については、民間病院の経営が、コロナ感染が始まって以来、危機的な状況になっていることが問題です。院内感染を恐れて患者が来ない、コロナ感染を予防するためのコストが高騰する、などで病院の収益は激減し、このままではコロナの第2波が来る前に日本の病院がバタバタ倒れてしまう、と言われているほどです。医療機関の経営問題を支援し、重症者向けの病床や集中治療室(ICU)を拡充することは、第2波に備え、国民の不安を取り除くために欠かせません。
次に、感染不安を減らすには、検査を拡充し、市中感染をできるだけ多く発見して適切に対処することが必要です。検査の目的は「医療のため」だけではなく「社会の不安を取り除くため」でもある、という新しい考え方に転換すべきなのです。
それが、「検査・追跡・待機」の考え方です。まず段階的にPCR検査を拡大すること。第2に、接触者追跡のための人員を大量に雇用して濃厚接触者を追跡すること。そして第3に、陽性者は隔離して一定期間、待機・療養生活を送ってもらい、新規感染者を抑え込むこと、の3点セットです。
人々が不安になる最大の原因は、無症状の感染者の存在です。彼らは自覚症状がないまま、職場や学校で日常生活を過ごし、知らず知らずのうちにクラスター(集団感染)を引き起こす恐れがある。「検査・追跡・待機」は、町中にいる無症状の感染者を減らすことによって、人々の不安感の払拭を狙っています。
「検査・追跡・待機」によって不安を解消すれば経済を再開できるという処方箋は、いまや世界中の経済学者が盛んに指摘していることです。世界各国も、検査体制を急ピッチで増強していて、米国は1日40万件、ドイツは1日15万件の検査を実施するところまで来ています。
検査体制の拡大が急務
検査の肝は優先順位
「検査・追跡・待機」のメリットは、外出自粛や休業要請に比べ、圧倒的に経済的コストを安く抑えられることにもあります。IMF(国際通貨基金)は、自粛と休業が6月まで続いた場合、日本の経済成長率は年率でマイナス5.2%になると試算しました。この先、第2波、第3波が来て年末まで経済停止が続けば、マイナス10%になってもおかしくありません。コロナがなかった場合の経済成長を控えめに0%と仮定すると経済停止による損失は年間25兆円から50兆円に達する計算になります。
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source : 文藝春秋 2020年7月号