坂東玉三郎「司馬遼太郎さんが教えてくれたこと」

コロナ時代の生と死

ニュース 社会
 歌舞伎俳優の坂東玉三郎さんは、「コロナ禍の中で、心配だったのは、体を使う機会が減ることでした」と語る。15年前からDVDを持っていた司馬遼太郎さんの『街道をゆく』(NHK)DVD全19巻を一気見し、自国を愛すること、についてのメッセージを受け取ったという。

移動の自由を奪われると……

「コロナ禍の中で、心配だったのは、体を使う機会が減ることでした」

 歌舞伎俳優として玉三郎は、肉体のケアに、細心の注意を払う。公演の前後に体のコンディションを整えるだけではなく、細部に至るまで常にメンテナンスして、少しでも問題があれば、すぐに対処もしてきた。

 だが、コロナ禍では、公演はおろか外出も自粛を余儀なくされて、毎日体を動かすことさえも意識して取り組まねばならなかった。

「1日30分から40分程度自宅で舞踊を踊りました」

 他者との接触を避けるように配慮しながら散歩もしたというが、負荷を掛けつつ全身をトレーニングするならば、舞踊が一番と判断したのだ。

「舞踊は、全身を使って動くだけではなく、体をひねったり、重心移動など様々な部位を意識しないと踊れませんので、それによって、筋肉の硬化を防いだり、体幹を鍛えることができると考えたのです」

 踊るのは、「山姥」と「鐘ヶ岬」と「藤娘」の3曲の中から2曲を選んでの稽古で、いずれも、長年舞台で舞ってきた作品ばかりだ。彼のことであるから、舞台で披露するように舞うのだろう。

 コロナ禍になる前から、玉三郎は人と会う機会を減らしていた。心身共にゆったりとした環境を求めたいと願うようになったからだという。独りで過ごす時間が苦にならず、穏やかに過ぎる時間を楽しんでもいた。

「新型コロナウイルスの蔓延による自粛生活を体験して、ひとつの発見がありました。それはいつでも人に会える状況なのに自分の意志で会わないのと、会ってはいけないと言われて会えないのとでは、精神的に大きく異なるのだということです」

 そして、ドイツのアンゲラ・メルケル首相の言葉が、じわじわと切実さを増して迫ってきたという。その言葉とは、今年3月18日、メルケルがコロナ禍で、国民に外出の自粛をテレビで呼びかけた演説の一節だ。

 “こうした制約は、渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、絶対的な必要性がなければ正当化し得ないものなのです。民主主義においては、決して安易に決めてはならず、決めるのであればあくまでも一時的なものにとどめるべきです。しかし今は、命を救うためには避けられないことなのです”

「自粛生活を通じて移動の規制が、人の心にどれほど大きい影響を与えるのかを、痛感しました。だからこそ、メルケル首相の言葉が心に染みたんです。行動の自由を制限されると、精神的な閉塞感がつのっていく。メルケルさんは、この危険性を語っていたのかと。だから、移動の自由を奪われることは、精神的な歪みとなって私たちに降りかかって来ると思いました」

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坂東玉三郎

コロナ禍前の日常の感覚が戻ってきた

 行動の自由すら奪われていた旧東ドイツ出身のメルケルの言葉だけに、その意味するものは重い。メルケルの言葉を初めて耳にした時、玉三郎は腑に落ちなかった。それが彼の心に重くのしかかるようになったのは、緊急事態宣言が解除された6月に入ってからだという。

「外出の自粛が解けたのに、外に出たいと思わなくなってしまったのです。外との接触を断つという状態に抵抗がなくなったんだと、気づいた時は愕然としました」

 この実感は、日本人の全てが大なり小なり感じたことでもある。このような精神状態こそが、“新しい生活様式”なのかも知れない。だとすれば、我々は油断していると、易々と囚人に甘んじてしまう傾向があると肝に銘じるべきである。

「人と会う約束をしているのに、直前になって気持ちが萎えてしまう。でも、それではいけないと、気持ちを奮い立たせて、外出しました」

 ようやく最近になって、コロナ禍前の日常の感覚が戻ってきたと実感しているという。

オンラインでは魂までは伝わらない

 自粛生活というのは、ある意味で、隠居生活のようなものだ。

「隠居老人になる練習だと考えようともしていました。世の中から要らないって言われて、外に出なくなると、どんな精神状態になるのだろう。自分の年齢を考えると、それはいつ訪れるかも知れないわけですから」

 この発想は、いかにも玉三郎らしいが、よくそんな辛いことを試してみようとするものだ。

「自粛生活を過ごす中で、隠居老人の気持ち十分に分かりました。誰からも必要とされていないと思うと、疎外感に苛まれます。その切なさは、言葉では言い表せないほどでした」

 玉三郎ほどではないが、在宅勤務を長く続けると、「自分は、会社で不要と考えられていないだろうか」と不安になったという人が、多かった。玉三郎のような立場の人さえも、そんな不安に襲われたのだ。

「疎外感に苛まれ出すと、被害妄想がどんどん膨らみます。妄想は大きくなり、他人は私を煩わしいと思っているに違いないと思ったり、理由もなく怒りが湧いてきたり……。人間は、孤独に弱いのだと痛感しました」

 その鬱屈は私自身にも起きた。そんな時、散歩に出たり心を許して話が出来る人の存在が絶対に必要になる。

「内向きで陰鬱になるのを防いでくれたのは、愚痴を言い合う友人との電話でした。他愛のない話から、腹立たしい出来事までを、互いがぶつけ合うことで、なんとか平穏な精神状態を保っていました」

 これらの体験によって、玉三郎は、人との繋がりの大切さを再認識した。

「現代は、ハイテク技術が進んだこともあって、人と人が会わなくとも済まされていく社会になりつつあります。それが良いか悪いかという議論ではなく、少なくとも私には、そんな生活はできないと思い知りました」

 私の場合も、コロナ禍の中にあって、それまでは対面が当たり前だった仕事が、ほぼオンラインになった。だが、人と話はしているのだが、なんとも言えない空虚感があった。それまでの私は取材にしろ打ち合わせにしろ、会って相手の目を見て表情や生の声を聞くことで、言葉ではない情報を大量に吸収していたからだろう。

 だから私も、「人と会わない生活はできない」と思っている。そして、コロナ禍に支配された春以降は、「新しい生活様式なんて受け入れない。今は非常時なだけだ」と自分に言い聞かせ続けた。

「不思議なもので、オンラインで映像を見ながら話すより、電話の方が、遥かに相手の気持ちや気配まで感じ取れるのです。電話は、声と息づかいだけなので、一生懸命、相手の表情や真意を想像します。映像の方が、分かり合えるというのは、幻想なのかも知れません。『映像作品』の場合は、作品に込めた魂を伝えようとあらゆる手法を駆使して、昇華させます。片や通信手段としての映像は、あくまでも道具に過ぎず、魂までは伝わらないのだと気づきました」

 世の中が便利になり、人は深く考えたり想像したりすることをもサボるようになった。IT化が進み、社会は劇的に便利になったおかげでコロナ禍でもそれなりに快適ではあった。だが、その生活には、人間の感覚的な何かを鈍磨させる麻薬が潜んでいるのかもしれない。

 尤もコロナ禍がもたらしたものは、地球に悪いことばかりではない。たとえば、世界を悩ませていた大気汚染が、かなり解消された。

「私が観たニュースでは、イタリアの地方の海が、3月には50年前の環境になったそうです。さらに、絶滅危惧種のトカゲの個体数に変化が生じたとも伝えられていました。また、地球温暖化の原因と言われているCO2も、コロナ禍の期間、世界中で減ったそうですね」

 そうした良い面は、残念ながら、コロナ禍が解消すれば、元の木阿弥になってしまうのだろう。

自国を愛するとはどういうことか

 自粛によって、普段は出来ない時間の過ごし方をした人も多いだろう。それも言ってみればコロナの恩恵ではある。自粛生活の間に玉三郎は、NHKが放映した『街道をゆく』のDVD全19巻を一気見した。司馬遼太郎が25年の歳月を費やした紀行文集の映像版だ。

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司馬遼太郎氏

「15年前からDVDは持っていて、時間的余裕がある時に観ようと思いながら果たせなかった」

 コロナ禍のお陰で、ついに懸案を実行できたのだ。

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source : 文藝春秋 2020年10月号

genre : ニュース 社会