秩父から世界一のウイスキーを——。「イチローズモルト」を作ったベンチャーウイスキー社長・肥土伊知郎氏が描く夢とは?
<この記事のポイント>
●今やジャパニーズウイスキーの代名詞ともいえる「イチローズモルト」が誕生するまでの歴史は、苦難の連続だった
●スーパーやディスカウントストアで売る気はゼロ。最初から酒の味で評価してくれるバーテンダーを狙った展開が当たった
●ウイスキーづくりに関しては素人同然だった肥土が短期間で飛躍的に質を向上させた秘密は、義絶寸前までいった“父の蒸留所”にある
「悪い酒なんかありません」
肥土伊知郎は3段、4段と行儀よく積み上げられた樽をみあげた。
これらは、彼が北海道に出向いて原木を選定したミズナラ材を用い、自社工場で組み立てたものだ。
樽の中にはウイスキー原酒(モルト)が眠っている。肥土は愛おしそうに樽を撫でながら語ってみせた。
「モルトは僕にとって子どもと同じ。樽ごとに個性が違いますし、こいつらが可愛くて仕方がありません。クセは少々強くても、悪い酒なんかありません。一滴だけでも使い途がある。それぞれの個性をどう伸ばしていくか、個性と個性をどう組み合わせてうまい酒に仕上げるか――これがウイスキーづくりの妙味です」
原酒は倉庫からブレンディングルームに移して細かく吟味される。
テイスティンググラスの中で琥珀色のモルトがゆらめく。色合いを確かめ、次いで鼻先を寄せる。柑橘系の薫りを連想させる芳香が漂った。
肥土は、手塩にかけた酒をそっと口に含み、舌の上で何度か転がす。深い沈黙と沈思。無言の時間が流れていく――やがて、彼は傍らのノートに手を伸ばした。
「和のフレイバー、フィニッシュにドライフルーツの香り」
彼ならではの表現をメモしていく。このノートで何冊目になるだろう。古いページをめくり文字を追えば、たちまちテイスティングの記憶がよみがえる。
肥土はうなずくと同時に微笑み、もう一度グラスを揺らした。
肥土氏
世界一のブレンダー
肥土伊知郎は洋酒メーカー、ベンチャーウイスキーを率いている。自らの名を冠した「イチローズモルト」は国内のみならず海外のウイスキーファンの垂涎の的だ。
昨夏にはベンチャーウイスキーのごく初期のモルト54種を揃えた「カードシリーズ」がオークションにかけられ、1億円近い金額で落札され話題を呼んだ。シリーズの完品は世界中にたった4セットしか残っていないといわれている。落札者は香港在住の洋酒マニアらしい。だが、肥土は苦笑まじりでいうのだった。
「愉しく呑んでもらいたいという想いを込めた酒なのに、あんな値段がつくと、金庫にしまわれてしまうんじゃないでしょうか。そうだとしたら、複雑な想いもありますね」
海外で数々の賞を受賞
この発言に肥土伊知郎の神髄がある。そういえば彼に、「セレブが自分のために究極の一本をつくれといったらどうします?」と尋ねたことがあった。こういう金満家は実在し、日本酒蔵やワイナリーが応じている。
肥土はすっと眉をあげてみせた。
「僕の心が動かないとやりません。ましてウイスキーを愛していない人なら、その場でお断りします」
肥土の酒は国際的なコンテストで受賞を重ね、彼も2019年には最高峰といわれるISC(インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ)の「マスターブレンダー・オブ・ザ・イヤー」を獲得するに至っている。ウイスキーの命脈を司るキーマンとして世界的な存在となってみせた。
ウイスキーはシングルモルトとブレンデッドに大別される。モルトウイスキーは大麦麦芽が主原料で、単一蒸溜所の複数の樽の原酒を調合したのが「シングルモルト」。一方のブレンデッドウイスキーは、複数の蒸溜所の様々なモルトだけでなく、小麦やトウモロコシなどが原料のグレーンウイスキーを加える。シングルモルト、ブレンデッドともそれぞれ個性と風趣があり、ブレンダーの手腕が問われる。肥土はその分野で傑人と認められたわけだ。
ところが、肥土はこの話になるとたちまち赤面するだけでなく、手を大きく左右にふるのだった。
「寝耳に水とはあのことでした。ノミネートされていることさえ知りませんでしたし……もしマスターブレンダーに選んでいただけるのなら、早くても10年後くらいかと」
彼はよく「10年後」を口にする。
「ウイスキー屋にとって“10年後”は口癖のようなもの。それだけの熟成期間がなければ、酒の成果はわからないと自戒を込めています」
肥土は1965年に埼玉県秩父市で生まれた。この8月で55歳になった。3年前に逢った時より少し痩せたような気がした。天然パーマの髪はいくぶん地肌が透けてきたし、頬のほうれい線の深みも然り。
だが、年齢を重ねいっそう落ち着きが加わった。偉ぶらず、おもねることもない。心地よく響くバリトンの声で、ていねいに受け答えしてくれる。寡黙じゃないが、ペラペラと上調子でまくしたてたりはしない。言葉数はむしろ少ないほうだろう。おかげで口調には誠実さが滲む。
「マスターブレンダーの称号を戴いたけれど“ウイスキー屋のオヤジ”と自己紹介しています。ブレンダーの仕事はとても大事ですが、樽づくりや瓶詰めに営業といろんな業務もこなしてきていますから」
ベンチャーウイスキーの秩父蒸溜所が竣工したのは08年。そこで手掛けた最初の商品は、11年発表で、発売当日に完売した「秩父ザ・ファースト」――かくも短期間での快進撃はこの業界では類例のないことだ。しかし肥土は決して驕らない。
「ウチは数年前まで“日本一小さな蒸溜所”でした。今でもサントリーやニッカ、さらには欧米の大メーカーとは比べものになりません」
象と蟻、巨木と一粒のドングリ。彼はこんな比喩をよく使う。
「企業規模で大メーカーと張りあうつもりはありません。だけど、品質では負けないものを提供したい。カネや名誉より、ウイスキー職人として独立独歩、うまい酒をつくることができたら本望です」
発売したウイスキーはすぐに売り切れる
酒屋に生まれ、サントリーへ
肥土の生家は、秩父で、1625(寛永2)年から日本酒づくりをはじめた。肥土は21代目にあたる。「肥えた土」とは、大地の恵みを生かす酒づくりにはうってつけの名だ。
肥土酒造本家は祖父の代で埼玉県羽生市へ移転、1946年にウイスキー製造免許を得た。東亜酒造と社名を改めたのは59年のこと。父がウイスキー製造設備を一新、羽生蒸溜所として本格的に稼働を始めた。
肥土は強い口調でいう。
「酒屋に生まれたのは運命ですね。職人気質というか、モノづくりに強い想いを抱くようになったのは、実家が酒蔵だったからこそ。もし食べ物屋だったら料理人になっていたでしょうし、建築業なら大工になっていたんじゃないかな」
肥土は幼い頃から蔵の片隅で遊び、酒づくりを間近にみていた。工作や図画が得意だったし、物理科学部で実験に熱中した時期もある。なるほど、ブレンダーとしてはもちろん、樽づくりに勤しむ彼をみていると少年時代がオーバーラップしてくる。
肥土は第1志望の大学には進学できなかったけれど、父の薦めで東京農大醸造科学科に入学する。就職先はサントリー。志望理由はこうだ。
「佐治敬三社長(当時)はマスコミによく登場していたし、事業家としても広く認知されていました」
肥土は照れながら「洋酒に憧れがあった」という。昭和40年代、ジョニーウォーカーやバランタインといったスコッチウイスキーは、高級品として応接間の飾り棚に鎮座していた。そして、サントリーの角瓶やオールド、ローヤルなどは父の目標だった。少年だった肥土にしても、サミー・デイビスJr.や大原麗子を起用した同社のスタイリッシュなCMに好印象をもっていた。
「就職後は希望した製造現場には配属されず営業や企画を担当しましたが、会社に骨を埋めるつもりでした」
「ウイスキーはすべて廃棄しろ」
ところが――1994年1月、父の「蔵を継いでくれ」というたっての願いを受け、彼は実家に帰る。
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source : 文藝春秋 2020年11月号