「尾身会長 VS 政府」苦悩する科学者たち

広野 真嗣 ノンフィクション作家
ニュース 社会 政治
どうやって菅首相の関心を経済から感染症対策へ動かすべきか——専門家の意見は割れた

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▶︎感染が拡大するコロナを前にした専門家たちの課題は「どうやって経済から感染対策へ菅の関心を動かすか」だった
▶︎専門家たちのアクションのスタンスも違った。助言に徹する立場の押谷・尾身。40代の西浦・和田らは直接国民に訴えかけようとした
▶︎菅政権になって、厚労省から感染症対策に関するインプットが減った、と西浦は指摘する

「飲食店だけに対策をやるのか」

「8割おじさん」と呼ばれた男、京都大学大学院教授の西浦博(43)の表情には時折、憂国の色が加わる。

「緊急事態宣言をやる、と首相が表明して間もなく、押谷先生が進めていた飲食店を中心とした対策に絞ってやる、というリーク情報が官邸筋から流れていると知ったんです。『専門家のこだわり』を政治的に利用した限定的な内容の宣言なら、空振りに終わると恐怖を感じました」

 西浦は動いた。首相の菅義偉が緊急事態宣言発出を検討する、と発表した翌1月5日の夕刻、自らのシミュレーションを発表したのだ。

〈飲食店の時短営業などに絞った対策では、2月末の段階でも東京都の新規感染者が1300人出る〉

〈昨年4月の宣言の効果と同等の効果が得られる対策ならば2月下旬に100人を下回る〉

 バズフィードとNHKの取材に答えるかっこうで独自に公表したシミュレーションは、緊急事態宣言の効果に疑問を呈するもので、夕食時間帯のSNSのタイムラインで次々と拡散され、意外な人物の前で“炸裂”した。

 首相官邸のはす向かい、中央合同庁舎8号館で夜9時から記者会見中だった新型コロナウイルス感染症対策分科会会長、尾身茂(71)だ。緊急事態宣言に関する「提言」を発表しているさなか、横槍を入れるような西浦試算について問われ、「西浦先生が言わんとしていることの本質は早く対策を打った方が良いということ、なるべく強い対策を打つ方が早く収束するということ。それについては私も大賛成」と答えた表情は明らかにムッとしていて、「飲食店だけに対策をやるのか」という問いかけに「答えはノー」と返した。

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西浦氏

押谷から届いたメール

 厚労省アドバイザリーボードや分科会に属する専門家たちは本番の会議とは別に毎週、何時間にも及ぶ「勉強会」を開いてはデータを共有し、対立点を最小化してから本番の会議に臨む。そのメンバーの最年少が西浦だ。

「専門家のこだわり」と西浦が言ったのは、西浦より二回り以上も上の世代の尾身と「参謀役」の東北大学大学院教授、押谷仁(61)が進めてきた対策のことだ。

 広範な社会経済へのダメージを回避するため、第3波で押谷は、全業態に網掛けするのでなく、感染リスクが高い飲食店を流行の「急所」と狙いを定めた。西浦は「急所対策」の有効性は認めつつ、すでにこの方法に適した時期を逸してしまっていると見ていた。

 押谷の対策を一足早く採用した北海道は感染が下火になった一方で、後手に回った東京都では拡大が続いた。メッセージが伝わらずに対応が遅れ、感染が広がる――この悪循環に専門家たちは苛立ちを募らせ、哲学や経験の違いから議論は割れた。

 菅は会見などでたびたび「専門家のご判断」を強調するが、経済重視の姿勢は強固で、思い切った感染症対策にはなかなか動こうとしない。その姿勢は専門家たちに十分伝わっていた。彼らの課題は、菅をどうやって説得するか。どうやって経済から感染対策へ菅の関心を動かすか、だった。

 2021年の元日、押谷から私の元に、一通のメールが届いた。

 年末の都の新規感染者数の「積み上がり」について無念さがにじんでいた。

「東京都の対応では、忘年会・クリスマスパーティーの上昇圧力を抑えきれなかったことが今の状況を生んでいるのは明らかです」「ここまで上がってしまうと、下がるのに相当時間がかかります」

 押谷は職人だ。感染者のデータと向き合い、そのデータの中から人々の関心をたどり、その行動のどこで感染が起きているか、しつこいほどに探る――周囲の押谷評だ。

 押谷は都会で育った。都立青山高校1年の担任を受け持った地学の先生は、岩波書店の『地球物理学』を1年かけて読ませる、というおおらかな授業をした。その頃から山登りが趣味になった。

 日本の文化人類学を切り拓いた梅棹忠夫やルポルタージュの名手、本多勝一に憧れた。彼らの出身大学に入ってフィールドワークをしたい、という動機から1浪の時の第1志望は京都大学。だが結果は不合格で、東北大学医学部に進み、その後、感染症疫学のエキスパートになった。

 押谷が脚光を浴びたのは、マニラにある世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局でアジアの感染症対策の責任者として重症急性呼吸器症候群(SARS)と対峙した03年だ。

 制圧の陣頭指揮を執って中国政府と渡り合い、最終的に終息宣言にこぎつけた時の上司が事務局長だった尾身。当時、現場の要を担った押谷に尾身は厚い信頼を置いている。

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押谷氏

 一方、尾身は、厚生省勤務を経て40歳でWHO西太平洋事務局入り。20年間のキャリアの前半をポリオ根絶に、後半は事務局長職に費やした。06年にはWHO本部事務局長に立候補するも、敗れた。

 もし勝っていたら、ジュネーブで09年の新型インフルエンザ、14年のエボラ出血熱の指揮を執っていたに違いない。それをはるかにしのぐ危機に直面して昨年2月に招集された新型コロナウイルス感染症対策専門家会議では、「前のめり」と表現するほど積極的に会見し、情報発信へ情熱を傾けた。

 失点を恐れ後ずさりする政治家たちと対照的に前に出た尾身は国民の信頼を得る一方で、批判も浴びた。

 本誌昨年7月号のインタビューに尾身は「政策を専門家がすべて決めているのではないか、あるいは政策がうまく行かない部分は専門家の責任ではないのか、というイメージが作られ、あるいは作ったかもしれない」と反省を口にしていた。

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尾身会長

「後手」批判を浴びた尾身

 尾身と押谷は、毎日のように官邸向かいの8号館で経済再生担当大臣の西村康稔と会い、感染状況や医療体制のデータとにらみ合う。2人が11月から2カ月間、頭を悩ませてきたのが「東京問題」だった。

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source : 文藝春秋 2021年3月号

genre : ニュース 社会 政治