心筋梗塞で心臓が弱まった人が拍動を取り戻し、脳梗塞で麻痺や認知などの障害を負った人が健常の生活を取り戻す——そんな製剤が開発されようとしている。
<summary>
▶︎損傷した細胞を新しい細胞に置き換える。ミューズ細胞は人間の身体を修復するのが仕事
▶︎ドナーの細胞でも培養すれば製剤として使えることがわかった
▶︎ミューズ細胞はALS(筋萎縮性側索硬化症)の進行を遅らせる効果があるとマウス実験で確認された
心筋梗塞の後遺症に特効薬
日本人の三大死因であるがん、心疾患、脳卒中(脳血管疾患)。このうち心疾患は心筋梗塞、脳卒中は脳梗塞が中心とされる。どちらも患部の血栓が詰まって酸素不足が起き、周辺の細胞が壊死してしまう疾患のため、一命をとりとめた場合でも、後遺症で困難を抱えることがある。
心筋梗塞の後遺症では心筋が壊死するために心不全や不整脈を起こすことがあり、脳梗塞では脳内の細胞が壊死することで手や足の麻痺、言語障害や認知障害などになることがある。一度壊死した心筋や神経細胞は再生できない。こうした後遺症には特効薬がなく、リハビリなどで対応するのが一般的な医療だった。
だが、その常識が大きく変わろうとしている。心筋梗塞で心臓が弱まった人が拍動を取り戻し、脳梗塞で麻痺や認知などの障害を負った人が健常の生活を取り戻す――そんな製剤が開発されようとしているのだ。
「急性心筋梗塞に関しては、探索的試験(3段階のうちの2段階目=第Ⅱ相試験)で行った3例の投与で、『機能が顕著に改善した』という結果が出ています。わずか3例ですが、我々が期待した有効性が確認できたと思っています」
そう語るのは、三菱ケミカルホールディングス子会社の生命科学インスティテュート(LSII)の木曽誠一社長だ。同社は2018年から、急性心筋梗塞や脳梗塞などの疾患について治験(人を対象とした医薬品の承認を得るための臨床試験。学術研究のための臨床研究とは異なる)を進めている。急性心筋梗塞の治験は最終段階である検証的試験(第Ⅲ相試験)の最中で、目標とする80例の半数を過ぎているという。
「心筋梗塞も脳梗塞も大変な疾患です。たとえば脳梗塞を患うと、歩みを奪われたり、言葉を奪われたりと、昨日とは違う自分になってしまいます。昨日まで喋れたのに、うまく喋れない。でも、それが快復して社会に戻り、日常を取り戻すことができたら、プライスレスの価値があるんじゃないかと思います」
2021年度中には新薬としての承認を厚労省に申請する予定だと木曽社長は言う。
大きな期待がかかるこの製剤は、ヒトの細胞からつくられている。
その細胞は、「Muse(ミューズ)細胞」という。東北大学大学院の出澤真理教授が発見した。ミューズ細胞とはどんな働きをするのか、また、従来の再生医療とは何が違うのか。出澤教授らに話を聞いた。
東北大学の出澤真理教授
体の損傷を修復する細胞
雪化粧の東北大学キャンパス。出澤教授の研究室には、欧米や中国からの留学生の姿も見える。出澤教授は譬え話から語りだした。
「ビルを維持していくには、日々清掃したり、電球を換えたり、壊れた建具を直したりしますよね。メンテナンス会社があって維持できる。同じことを、われわれの体もやっているんです。どこかが損傷したとなれば、その損傷した場所の細胞を修復する。あるいは、新しい細胞と置き換える。ミューズ細胞はそんなメンテ会社のように、我々の体を修復するのが仕事なんです」
私たちの体の細胞は日々壊れたり死んだりしているが、すぐに体に異変が生じるわけではない。おかしくなった細胞があっても、修復されたり、置き換えられたりするからだ。そんな作業を担っているのが、ミューズ細胞なのだと出澤教授は言う。
「小さな怪我であれば、自然と治るのは誰でも経験していますよね。そういった修復は当たり前のように思いますが、どうやってなされているのか、はっきりした答えはわかっていませんでした。ですが、研究の結果、ミューズ細胞がその仕事をしている細胞だとわかったのです」
ミューズ細胞は、さまざまな細胞に分化する幹細胞の一種で、誰の体にも存在している。大元は骨髄にいて、赤血球や白血球などと同じように少しずつ血液中に流れ、様々な臓器に分配されている自然の細胞だ。そして臓器など体に何らかの異変があると、その患部に自ずと集まっていく。特にその働きが活発化するのは、急性心筋梗塞や脳梗塞などで急激な異変が起きたときだ。
出澤教授は脳梗塞を例に挙げる。
「2年前の富山大学脳神経外科による臨床データですが、脳梗塞が起きるとだいたい1~3日でミューズ細胞の末梢血管への増加がピークを迎えることがわかっています。個人差はありますが、通常時の数倍から数十倍。高い人では100倍近くにも上がる人がいる。つまり、体に何らかの損傷が起きると、自然の働きとしてミューズ細胞は血液中により多く動員され、傷害部位を目指すのです」
目的の臓器に集まったミューズ細胞は、自らが組織や臓器を作る細胞に分化し、正常な細胞に置き換えることで修復していく。それが可能なのは、あらゆる細胞に分化できる多能性という特性があるためだ。
「筋肉に入れば筋肉に、皮膚に入れば皮膚に、傷んだ血管に入れば正常な血管の細胞になっていく。そうやって自然にミューズ細胞が修復してくれるのです」
あらゆる細胞に変化できると言っても、手の皮膚で胃壁のような細胞ができては困る。あるいは、損傷した細胞を修復しようとしてむやみに増殖し、がん化しても困る。その臓器や組織に応じた細胞が必要な量だけ適切に組成されなければ修復の意味はないが、ミューズ細胞ではそれも人がコントロールする必要がない。ミューズ細胞が「場の論理」に従って適応するからだ。
だが、体内に元からあるミューズ細胞だけでは賄えないときがある。
「それは脳梗塞や急性心筋梗塞といった重大な疾患の時です。多くの場合、発症後血液中のミューズ細胞数が劇的に増加しますが、それでも通常の数では修復が間に合いません。また増加しない人や、逆に減ってしまう人もいます。そこで外からドナーのミューズ細胞を点滴で投与し、補充する。それがミューズ細胞による細胞製剤の治療なのです」
ミューズ細胞
製剤を15分点滴するだけで
ミューズ細胞は、どの疾患に対しても、製剤の仕様、治療法が変わらない。現在行われている治験では、どの疾患でも、ドナーから採取し、培養して数を拡大したミューズ細胞製剤15ミリリットル(約1500万個の細胞を収蔵)を希釈して52ミリリットルにしたものを、点滴(静脈注射)で15分程度かけて投与していくだけだ。
急性心筋梗塞の第Ⅱ相試験では、目覚ましい結果が公表されている。心臓の左室は全身に向けて血液を送り出すポンプ機能がある。心拍ごとに心臓が送り出す血液量を心臓が拡張したときの左室容積で割った値を駆出率と言い、正常値は50~80%とされる。だが、急性心筋梗塞を患うと、この値が45%以下に下がることがあり、25%まで下がると心不全になる恐れがある。治験の参加者は、この値が平均40.7%まで下がっていたが、ミューズ細胞製剤の投与後には52%まで上昇したのだ。
ただし、効果はすぐ表れるわけではない。患部にたどり着き、細胞を置き換えていくには、およそ2~3カ月かかると出澤教授は言う。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
今だけ年額プラン50%OFF!
月額プラン
初回登録は初月300円・1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
オススメ! 期間限定
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
450円/月
定価10,800円のところ、
2025/1/6㊊正午まで初年度5,400円
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事、全オンライン番組が見放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 毎月10本配信のオンライン番組が視聴可能
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年6,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2021年3月号