オウム真理教事件「一生の不覚でした」

特集 平成30年史全証言《事件》

國松 孝次 元警察庁長官
ニュース 社会

“無差別テロ”への捜査から自身の狙撃事件まで、秘話を明かす

國松孝次氏 ©文藝春秋

 平成7(1995)年3月の地下鉄サリン事件をはじめ、坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件など計13事件で27人を死なせたオウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)の死刑が、7月6日に執行された。また、同日に元幹部6人、さらに20日後の同月26日には残る元幹部6人の死刑が執行。これにより、一連の事件で死刑が確定していた13人全員の刑が執行され、平成の終わりを前に、事件の幕は降ろされた。
 日本社会を震撼させたオウム事件を、当時、警察20万人のトップである警察庁長官を務め、捜査の渦中に自らも何者かに銃撃された國松孝次氏が振り返った。

 坂本さん一家殺害事件が起きたのは、平成元(89)年の11月4日でした。当時の私はまだ兵庫県警本部長でしたが、その後、平成3(91)年1月に警察庁刑事局長に就くと、捜査一課長から、「オウム真理教の関与の疑いが強い」と報告を受けました。

 しかし、捜査にあたっていた神奈川県警が、長野県に遺体が埋められているという投書にもとづき捜索しても、坂本さん一家の遺体は見つからず、引き続き捜査中という状態でした。その都度、報告は受けていましたが、進展のないまま、私は平成5年(93)年5月に次長に異動になります。

 松本サリン事件が起きたのが、1年後の平成6(94)年6月27日。この時期はちょうど夏の定期人事があり、私は7月12日に警察庁長官に就任するのですが、その直後、科学警察研究所の所長が「サリンです」と顔色を変えて報告に来ました。しかし、日本には存在しないはずの毒ガスで、本当に日本で誰かが作ることができるのか、まだ不可解に思っていました。

 長野県警の初期の捜査では、第一通報者の河野義行さんに疑惑の目が向けられていましたが、その後の捜査によって8月ごろからはオウムの関与が浮上していました。

 一方で、坂本さん事件をずっと追っていた神奈川県警の捜査員は、何度もサティアン(オウムの宗教施設)がある山梨県上九一色村(当時)に足を運んでいました。そして、同年11月、サティアン外周の溝から泥を持って帰ってきたところ、そのなかからサリンを作ったときに出る残渣物が検出されました。これにより、オウムがサリンを作る能力を持っていることが物的に裏付けられたのです。ところが、どこでどうやってサリンを生成しているのか、まだまったくわかっていませんでした。

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source : 文藝春秋 2019年1月号

genre : ニュース 社会