コロナ第4波「菅官邸の陥穽」

分科会メンバー手記

小林 慶一郎 慶應義塾大学教授
ニュース 社会 政治

インド株「水際対策」不徹底が第5波を招く

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小林氏

(1)日本の「危機管理」は進化したのか

 6月20日をもって東京都の緊急事態宣言を解除していいのかどうか。政府から諮問を受ける基本的対処方針分科会メンバーの一人としては、本当に迷いましたし、難しい判断だったと思い返しています。

 分科会があったのは17日木曜日の午前中でした。前日に、厚労省のアドバイザリーボード(感染症専門家の会議)があり、東京では若年層を中心にリバウンドの兆しがあると指摘されていました。これまで減り続けていた都の新規感染者数が12日に前週同曜日比でプラスに転じたことで関係者の危機意識も高まっていました。

 リバウンドしたら強い措置を採るというのが政府と分科会の了解事項ですから、リバウンドの「兆し」が見えている東京都は緊急事態宣言を解除できないのではないか、ということが当然の疑問として浮かびます。

 分科会の冒頭で、前日のアドバイザリーボードの資料が説明されたのですが、それを聞いて私は、

「東京を解除する案が政府から提案されていますけど、アドバイザリーボードでは、東京はリバウンドの兆しがあると指摘されている。本当にいま解除していいのでしょうか」

 と質問しました。私は経済の専門家で、感染症対策は門外漢ですが、感染症専門家のメンバーも同じ疑問を持っている人が何人もいました。中でも釜萢(かまやち)敏さん(日本医師会常任理事)は、解除していいかどうか自分の中で結論を出せない、と率直に発言されていました。

 それでも最後の決を採るに当たってメンバー全員が政府案に反対しなかったのは、ワクチン接種の加速などもあり、東京の医療が逼迫しない状況になっていたことが大きかった。飲食業界が経営的に限界に来ているということも解除の動機の一つではありましたが、東京の医療に余裕があることは確かで、正直なところ、その点で判断が楽観的になったことはあります。

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田村厚労相(左)と西村コロナ担当相

政治のリーダーシップとは何か

 私が感じるのは、菅義偉首相や官邸が「五輪開催(観客あり)」と「経済再開」に前のめりになった結果、「二兎を追う」ことを安易に決めてしまったのではないかという疑問です。「五輪開催」と「経済再開」は矛盾をはらんだ目標です。飲食業の解禁は国民に「自粛しなくていい」という誤ったメッセージを送り、その結果、感染を広げる可能性が大きい。すると、首相のいう「安全・安心な五輪開催」が実現できなくなるかもしれない。政府内にも感染拡大の懸念がある中で、政権として五輪開催という目標を掲げるのであれば、それまでの間は、断固とした対策で感染を抑え込むという戦略性を持つべきではなかったか。2つの矛盾した目標を追うと両方とも逃してしまう恐れもあります。

 菅首相や官邸が経済再開を急いだのは、休業や時短を強いている飲食店などの救済のためでした。飲食店の経営を救うために感染対策を緩めたわけです。しかし、実は飲食店の救済と感染対策を両立させる選択肢もありました。それは、給付金など財政的な支援を増やすのと引き換えに、緊急事態宣言を続けるという方法です。しかし、この方策は議論さえされませんでした。というのも昨年来、財務省が協力金や給付金に関して、「10兆円を超える予備費で十分手当てした」「これ以上の財政出動はありえない」と強く主張しており、もはや財政出動の追加はないことが常識となっていたためです。

 国の借金がとんでもない状況であることはよくわかります。しかし、コロナ対策では、財政再建のために支出を節約した結果、財政がさらに悪化するという「合成の誤謬」が起きかねないのです。つまり、財政資金を出し渋って十分な協力金等が出せないので、緊急事態宣言を感染が収まる前に解除せざるを得なくなる。その結果、感染が再拡大して、再び緊急事態宣言に追い込まれる。すると、経済が再び悪化して、税収が減り、財政がさらに悪化する……。財政改善のための政策が財政を悪化させるという、まさに、合成の誤謬です。

 それでも財務省が堅い姿勢を取り続ける背景には、財務省が政治家を信用していないという問題が隠れています。「政権の言うとおりにお金を出しても、後で増税させてくれない」と財務省は思っていて、だから一歩も譲らぬという姿勢を取り続けているのです。

 もし、政治と財務省との間に信頼関係があればどうなっていたか。ドイツでは、2023年以降の財政再建計画を作ったうえで、いまお金を出しています。「今はお金を出すけど、後で財政再建します」と国民に約束したうえでお金を出している。

 菅首相や官邸も、財務省(ともちろん国民)に対して、「数年後には取り戻せるよう再建計画を作るから、今はお金を出そう」と言えば、財務省も納得して給付金等の財政出動の追加に同意したかもしれません。今回の宣言解除の裏にも、政策決定に関与するそれぞれのプレイヤーがお互いを信用していないために、互いに協力できず、一番いい政策ができないという問題があります。

 プレイヤーがそれぞれの立場で行動するのは現実としても、やはり首相と官邸は一段上にあるべきで、国民の負託を受けていることを自覚し、危機に際しては、既存組織の枠を超えてあらゆる選択肢を検討し、問題に立ち向かうことが必要です。それには首相と各省の大臣などの政治家が一致協力してリーダーシップを発揮することが必要です。官僚が既存の組織の壁を超えて連携できるような枠組みを、政治が用意するべきなのです。

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五輪と経済の二兎を追う

(2)インド株の水際論争の中で消えた「幻の提言」

 東京都の宣言解除は何を意味するか。それは「インド株が勝つか、ワクチンが勝つか」のギリギリの勝負が始まったということです。日本は、この賭けで「ワクチンが勝つ」ほうに命運を賭けたわけで、その結果、都の新規感染者の増減を、毎日固唾をのんで見守る状況が続くことになりました。

 あまり注目されませんが、このインド株の水際対策に失敗したことは、この数カ月のコロナ対策の中で最大の失敗のひとつだと私は考えています。水際作戦などそもそも無理だと捉えている人も多いですが、オーストラリアやニュージーランドなど従前から厳しい水際対策(14日間の宿泊施設での待機)を取っている国はシャットアウトに成功しています。感染力は従来株の2倍、英国株の1.3倍といわれるインド株を封じていれば、この夏の日本の光景はだいぶ変わったはずでした。

 4月半ばに、大阪の新規感染者数が1200人を突破した結果、ついに医療崩壊まで引き起こしたのも、大元をたどれば、昨年末から今年始めにかけての英国株の水際対策の失敗に行き当たる。昨年暮れに英国のジョンソン首相が「変異株は感染力が最大7割増」と公表したにもかかわらず、厚労省の反応は驚くほど鈍く、水際対策の強化を小出しにして対応が遅れてしまいました。大阪・兵庫では、4月のピーク時にはすでに9割近くが英国株に置き換わっていたと推測され、この感染力の強い英国株こそが医療崩壊を引き起こし、多数の死者を生んだ原因だったのです。

後手に回った厚労省の水際対策

 日本でインド株の脅威が認識されたのは、GWの頃、インド各地で医療崩壊が起きていることがニュースで盛んに報道されたことがきっかけでした。当初は、ヒンズー教のお祭りが原因だと指摘される一方、感染症の専門家たちは危機感を強め、アドバイザリーボードのあるメンバーは、日本でも外出禁止令が出せるように法律を変えるべきだと真剣に論じていました。

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source : 文藝春秋 2021年8月号

genre : ニュース 社会 政治