東芝事件、学術会議問題等の深層を前国家安全保障局長が語り尽くす
北村氏
長くやるべき職務ではない
去る7月7日をもって国家安全保障局(NSS)局長を退任しました。1980年の警察庁入庁から始まった公務員人生は実に41年にわたりますが、そのうち最後の9年6カ月を総理官邸で過ごしたことになります。
「こういう職業は無限にできるわけではない」
退官に当たり、親友で、アメリカの国家情報長官を歴代最も長く務めたジェームズ・クラッパー氏は、こんな言葉を贈ってくれました。全く同感です。どこかのタイミングで辞めるべきだし、そんなに長くやるべき職務ではない。今年の12月で65歳になりますから。フランス語のÇa suffit.ほど強烈ではありませんが、もう十分だと思います(笑)。
既に報じられていますが、退任後、しばらくは右変形性股関節症の手術と治療に専念します。今年に入ってから夜も眠れないほど痛みが酷く、鎮痛剤を手放せない状態が続いていました。
NSS局長には、2019年9月に就任し、主に外交・安全保障政策の司令塔役を担ってきました。この間、日本では安倍政権から菅政権へ、アメリカではトランプ政権からバイデン政権へと、政権移行と政権交代を経験しました。こうした政権の過渡期において日米同盟をいかに維持し、深化させるかに注力しました。アメリカの国家安全保障会議(NSC)との折衝は非常に気を遣いましたが、日米の安全保障政策の継続性を維持し、志を一つにすることが出来たと思います。
NSSで手がけた大きな仕事の一つは、2020年4月に「経済班」を設置して、経済安全保障政策を推進したことです。この経済班は、「経済分野における安全保障」の司令塔となり、政策の企画立案・総合調整を行うもの。経産省出身の藤井敏彦内閣審議官の下に、財務省・総務省・外務省・警察庁から出向している4人の参事官がおり、総勢約20人(2021年7月11日時点)ですが、一騎当千の体制です。
無人ヘリの不正輸出
世界では正に今「経済安全保障」の時代が到来しています。「安全保障」といえば軍事を思い浮かべる方も多いと思いますが、その安全保障の分野が近年、経済へと拡大しつつあるのです。
かつては、インターネットのように軍事由来の技術が民間に転用されていましたが、今やAIやドローンを始めとした民間の先端技術が軍事転用されており、産業構造の地殻変動が起きています。覇権主義を強める中国も、軍と民間企業が一体となる「軍民融合」政策を進め、軍事力の強化を図っています。
警察官僚として私は外事畑が長く、外為法(外国為替及び外国貿易法)違反の事件を数多く手がけてきましたが、日本の先端技術が易々と他国に流出していく様子を目の当たりにしました。
ヤマハ発動機の無人ヘリコプター不正輸出はその一つです。
2007年2月、静岡・福岡両県警は、農薬散布や空中撮影等で使う無人ヘリコプターを中国・北京の空撮会社に輸出しようとした容疑で、ヤマハ発動機の幹部らを逮捕しました。無人ヘリは軍事転用が可能なため外為法で輸出が規制されていますが、ヤマハは性能を故意に過少申告し、中国への不正輸出を続けていました。輸出先は、人民解放軍とも密接に関係しており、軍事転用された可能性が濃厚です。
外国の情報機関が軍事、政治の機密情報を入手するのは、極論すると過去の話になりつつあります。世界各国における情報機関の矛先は、政府や企業が保有する先端技術に向けられています。
NSSの「経済班」は、こうした世界情勢の変化に対する危機感から発足したのです。
我が国でも、安全保障と経済を横断する領域で様々な問題が生じています。後ほどご説明しますが、中国の大手IT企業・テンセントによる楽天への出資、東芝における外資規制と株主議決権の問題、LINEの個人情報問題、日本学術会議と「千人計画」の関係。誰もが知る企業やニュースの背景には「経済安全保障」の問題が多々存在します。
しかしながら、日本国内において「経済安全保障」の概念は、永田町・霞が関の一部を越えてあまり共有されておらず、危機感も高まっていません。世界で今何が起こっているのか、日本ではどのような制度が必要なのか。NSSの「経済班」を立ち上げた責任者として説明すべきだと思い、インタビューをお受けしました。
経済安全保障とは何か。明確な定義こそありませんが、大きく分けると3つの側面が見えてきます。
その一つが「エコノミック・ステイトクラフト」とも呼ばれる概念で、経済的措置を外交・安全保障に活かし、国益を追求するというものです。最も直截で分かりやすい例が経済制裁です。民主党政権下の2010年、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件の際に、船長を日本政府が拘束したことに中国が抗議し、レアアースの対日輸出を停止しました。その結果、レアアースの価格は高騰し、日本企業は負担を強いられることになった。経済的措置を通じて他国を「攻撃」するものといえます。
2つ目は防御的側面。いかに自国の技術を守るかということです。先ほどお話ししたように、日本企業が有する様々な先端技術が海外流出している現状があります。外国企業が日本企業を買収することで、人材を含めた技術が流出していく例もあります。このような事態を外為法を始めとする法令でいかに防ぐかが重要になってきます。
3つ目が「自由で開かれた国際経済システム」の維持です。法の支配、自由で公正な貿易、民主主義といった共通の価値観に基づき、経済的な連携をとっていく。日米豪印の「QUAD」等の枠組みを通じて、こうした価値観に合致する国際的なルールを形成していく必要が出てくるでしょう。
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「データは国家なり」
では、経済安全保障における最大のポイントは何か。21世紀は「データの時代」なのだということをまず念頭に置く必要があります。
安倍晋三前首相は、2019年1月のダボス会議で次のようにスピーチしています。
「我々人類は、ガソリンの価値を知るに至るまで、30年とか、40年もかかっています。それが、20世紀も20年を過ぎようという頃になると、ガソリンは自動車を走らせ、飛行機を飛ばせていたわけです。
データについても、同じだとは言えませんか。私たちがインターネットを壮大な規模で使うようになったのは、1995年頃です。でも、21世紀も20年を数えようという頃になって、データが、我々の経済を回している事実にようやく気がつきました」
20世紀は、石油が世界を動かした時代です。石油を蓄えた油田、石油を輸送するパイプライン、原油を精製する精製所、これらのバックボーンとなる鉄鋼。これら全てを制した国家が世界の覇権を握ったわけです。
ところが、石油の時代は終焉を迎え、既にデータの時代に移行しています。データを制する国家が世界の覇権を握る。データに関する技術覇権を巡って激しい角逐が始まっています。「鉄は国家なり」ならぬ「データは国家なり」です。
これからは、データを保存するデータセンター、データを送信する海底ケーブルや5G、Beyond 5Gの技術、データ解析のためのAIや量子コンピューティング技術、スマートフォンを始めあらゆる機器に使用される半導体の製造技術……データにまつわる技術の総体が、我が国の命運を決定付けるのです。だからこそ、データの時代における技術覇権の角逐に対応する経済安全保障政策が急務だといえるのです。
中国の半導体工場
中国の視線の先
経済安全保障についての危機意識が高まった契機は、言うまでもなく中国の経済的、軍事的台頭です。1990年代以降、中国は、共産党一党支配の政治力を背景に、広大な国土と人口規模を生かし、軍事力と経済力を拡大してきました。
しかし、近年、西側の先進諸国が考える「国際秩序」と中国のそれとでは大きな隔たりがあることが明らかになってきました。西側先進国が目指す国際秩序は、先ほどお話ししたように、「自由で開かれた、法の支配に基づく世界」。それぞれの国が平等で、法の支配・自由・平等を尊重するという同じ価値観に基づいて、連携をとる世界です。
一方で、中国が目指す「国際秩序」とは何か。習近平国家主席は頻繁に「新しい形の国際関係の仕組み」という言葉を使いますが、これは現状の「国際秩序」への挑戦に他なりません。中国はかねてから巨大経済圏構想「一帯一路」を掲げ、アジアやアフリカの発展途上国に対し、インフラ整備のための桁違いの投資を行ってきました。その上で最終的に目指しているのは、中国の資金を潤滑油とする、非公式な同盟による枠組み形成です。しかも、対等な繋がりではなく、中華思想に基づく、中国を頂点としたピラミッド型の国家連合を目指しているのではないでしょうか。
これまで西側諸国は、中国と技術覇権を巡って競争するなかで、「同じ目標に向かって1位2位を争っている」ものだと思い込んできた。それが、実はそうではなかった。ただ単に技術的な競争をしているわけではなく、習近平主席の視線の先には、我々が想像するのと全く異なる未来が広がっていることが明確になりつつあります。
こうした中国の政治的野心に気付き、いち早く方向転換したのがアメリカです。象徴的だったのは、米トランプ政権下で、私のカウンターパートであったロバート・オブライエン安全保障担当大統領補佐官の発言です。彼は2020年6月24日の演説で、次のように語っています。
「中国に対して受け身で甘い考えを抱いていた時代は終わった」
この演説を皮切りに、同年7月7日にはクリストファー・レイ連邦捜査局(FBI)長官、同月16日にはウィリアム・バー司法長官、同月23日にはマイク・ポンペオ国務長官(FBI長官以外はいずれも当時の役職)と、大統領側近たちが相次いで中国批判の演説を行いました。
習近平主席
風力発電事業の買収を阻止
米中の歴史を振り返ると、1979年の米中国交樹立以降、アメリカは中国に対して関与政策を進めてきました。米ソ冷戦において「ソ連封じ込めのためのカウンターバランスとして中国を使いたい」との戦略的思考があったのでしょう。
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source : 文藝春秋 2021年9月号