日本の第一人者が語る新型コロナウイルス制圧への道。(聞き手・河合香織)
河岡氏(左)と河合氏
ワクチンや抗体療法の開発に力を注いでいる
河岡義裕氏はウイルス学の世界的権威である。インフルエンザウイルスを人工的に作る技術を世界で初めて開発し、エボラウイルスワクチンの臨床研究を行い、国際ウイルス学会会長も務めた。現在も新型コロナウイルスのワクチンや抗体療法の開発に力を注いでいる。
今、デルタ株が猛威を振るい、日本国内の感染者の9割以上を占めているが、科学的に正しい情報は何なのか? また、私たちはどのようにこのパンデミックに向き合うべきなのか? 河岡氏に話を聞いた。
私はこれまで、新型コロナウイルスはワクチンによって制御できるだろう、変異株が現れても大丈夫だろうと考えていました。しかし最近、このウイルスの短期間での制圧は難しいと考えるようになってきました。少なくとも現時点で、その道筋は見えていません。たとえばインフルエンザと同じレベルに落ち着くまでに1年かかるのか、あるいはもっとかかるのか、現時点での予測は不可能です。
そのような考えに至った理由の一つは、デルタ株に対するワクチンの有効性のデータにあります。デルタ株が現れた当初のイギリスのデータでは、有効性が若干落ちるけれど、ある程度は大丈夫という結果を示していました。
ワクチン接種者でも初期のウイルス量が変わらない
最近、米マサチューセッツ州で流行があり、その90%がデルタ株でしたが、感染した人の74%が、ワクチンを打った人だったのです。さらに、その約80%に症状があることが報告されました。従来、ワクチン接種を終えた人は、ウイルスに感染しても発症はしない(不顕性感染)とされてきました。ところがマサチューセッツ州の例では、80%が不顕性感染ではなかった。ここは重要なポイントです。我々も関わった米ウィスコンシン州、イギリス、イスラエル、シンガポールからも同様のデータが出ていて、ワクチンを打った人でも感染するだけではなく、発症もしているのです。
さらに、私たちの研究室でデルタ株に感染した人のウイルス量を調べたところ、ワクチンを打った人と打っていない人とで、感染初期の感染性のあるウイルス量にほとんど変わりがないことも明らかになりました。一方、ワクチンを打った人には、ウイルス量が減るのが早いというメリットがあることもわかりました。ただ、感染初期のウイルス量がワクチンによって変わらないということは、つまり他人にウイルスを感染させてしまう機会も多いことを示唆しています。
短期での制圧が難しいと思われるもう一つの理由は、デルタ株流行以降、イスラエルやイギリスなどワクチン接種率がかなり高い国でも感染者数が増えていることです。人口のかなりの割合が免疫を持ったとしても、ワクチン未接種者が一定の割合いれば、また感染が拡大してしまう。当初想定していたよりも、集団免疫へのハードルはかなり高いことが明らかになりました。
かといって、ワクチン接種に意味がないというわけではありません。重症化を防ぐという点においては、ワクチン接種が進めば、医療体制の圧迫はなくなる可能性が高い。先に紹介したマサチューセッツ州のアウトブレイクでも、ワクチン接種によって重症化を防げていたことがわかっています。
ただ、そう簡単にパンデミック前の生活に戻れる状況ではないのだと、私は認識が変わりました。
変わってきたアメリカの戦略
ワクチン接種が進んだ国でも、対応が変わってきています。少し前までは、アメリカでは8月から大学の活動なども「パンデミック前に戻す」という宣言が出ていました。それがデルタ株の状況で変わってきました。いったん解除したマスク着用も、再び義務化されています。
私は当初、アメリカの戦略は、「ワクチン接種がある程度まで進んだら、あとは何もしないで放っておく戦略」だと思っていました。これはどういうことかと言うと、人々の抗体が、日常生活の中で自然に維持できるようにする戦略です。アメリカにはワクチンを打たない人も一定数おり、つねに市中にウイルスが存在しています。ワクチンを接種した人は、市中に存在するウイルスに日常的に晒されることで、抗体を維持することができる。いわば、ブースト用ワクチンを受けているのと同じことになり、感染しても発症しない効果が期待できます。
よく「小児科の医師はインフルエンザにかからない」と言われます。彼らは毎年インフルエンザウイルスに曝露しているため、免疫を維持できているのです。2009年の新型インフルエンザの時も、アメリカはこの戦略を採用し、ワクチン接種は推進しましたがそれ以外の感染症対策をあまりせず、広がるままにしていました。
しかし、デルタ株の世界的な流行により、この戦略の見直しが迫られています。今後、40~50代や高齢者のワクチン未接種者たちがどの程度感染して、どの程度重症化するかがポイントとなってくるでしょう。
ワクチン接種が進む米国のバイデン大統領
「○倍伝播しやすい」を鵜呑みにするな
――米紙ワシントン・ポストが報じたCDC(米疾病予防管理センター)の内部文書によると、デルタ株の基本再生産数は平均5~9.5人と試算しています。また、水疱瘡に匹敵する強い感染力をもつとの指摘もありますが、実際どれぐらい強い感染力を持っているのでしょうか?
私の日米の研究室では、デルタ株をはじめとする世界中の新型コロナウイルスの変異株があります。デルタ株の特徴は、細胞の中に入って行きやすくなる変異を持っていることです。新型コロナウイルスの表面には、細胞にくっつくためのトゲトゲした突起(Sタンパク質)がありますが、デルタ株のSタンパク質には特徴的な変異が入っているので、感染力が高まっている可能性があります。
また、デルタ株を実際に扱ってみたところ、確かに細胞内でよく増えます。ですが、だからといって「デルタ株は従来株の○倍の感染力を持つ」と言えるわけではありません。なぜなら、ウイルスが蔓延しているのは実験室ではなく、実社会だからです。
詳しい説明に入る前に、まずはメディアでよく目にする用語の正確な意味を押さえておきましょう。「基本再生産数」とは、ある感染症について全く免疫を持たない集団の中に1人の感染者が放り込まれた時、2次感染させる人数です。一方、「実効再生産数」とは、すでに感染が拡大している集団において、1人の感染者が単位時間内に何人の2次感染者を生み出すかを推計したものです。
ただ、実効再生産数は環境により変化します。なぜなら実社会では様々な要因が絡み合っており、人々の行動様式(どれぐらい「密」を避けているか、手指消毒の程度など)、湿度・天候等々、無数のファクターによって変わってしまうからです。それゆえ、メディアの「○倍伝播しやすい」といった表現を鵜呑みにすることは危険なのです。
たとえば、昨年春の1回目の緊急事態宣言時を思い出してみて下さい。当時の人々の行動や街中の人出は、今とは全く違いました。その時点での実効再生産数と現在の実効再生産数を比べても、あまりにもバックグラウンドが違うため、意味がないのです。
一部では「デルタ株は従来株と比べて1.5倍も感染性が高い」などと言われていますが、これも慎重に考えたほうがよいです。もし変異株が従来株に比べて1.5倍感染性が高くなったとすると、6回変異株が入れ替わったら1.5の6乗で、最初のウイルスの10倍伝播しやすいウイルスが生まれることになる。そういうことは、同じウイルスでは考えづらいです。
ウイルスは同じ環境で競争しているので、後から広がったウイルスの方が伝播力が高いのは確かですが、ほんの少しのアドバンテージがあるだけで、ウイルスは置き換わっていきます。ですから、「○倍」といった数字には惑わされないよう気をつけないといけません。
また、日本では「感染力」という言葉が使われていますが、「伝播力」の意味で誤って使われていることが多くあります。感染力と伝播力は違うものです。感染力とは、あるウイルスがどれくらいの量で感染するかです。ほとんどのウイルスは、1個だけでは感染しません。感染を起こすのに必要なウイルスの量が10個なのか100個なのか、その量を表すのが感染力です。
一方、伝播力とは、感染力に他のファクターを含めた数値です。例えば、安定な(不活化されづらい)ウイルスは、それだけ伝播力が高まります。
繁華街の人出は減らない
まだわからないデルタ株の性質
――デルタ株はまったく別のウイルスだと考えるべきだという意見もありますが、そうなのでしょうか?
デルタ株が従来株とはまったく別の性質をもつウイルスだと言うウイルス学者はいません。イギリスは従来株で人に対する感染実験を行いましたので、今後、デルタ株でも実験する可能性はあります。そうした実験をしてみないことには、本当の性質はよくわからないのです。
現時点でわかっているのは、ある集団の中でどれくらいの人にウイルスが伝播していったのかを計算した数字だけ。ただ、流行していたアルファ株からデルタ株に置き換わったということは、アルファ株よりも伝播しやすいということは、間違いないです。
――これほど世界中にデルタ株が広がったということは、感染ルートが変化しているのでしょうか? CDCは今年の5月以降、感染者の口や鼻から出て空気中を浮遊するウイルスを含んだ微粒子である「エアロゾル」感染の注意を呼びかけています。
新型コロナウイルスが空気感染を起こすかどうかの議論は、昨年の最初の感染拡大の時からありました。ただ、デルタ株は従来株と比べてどれぐらい空気中に残りやすいのか、比較できているわけではありません。
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