終戦の翌年にソニーを設立し、盛田昭夫とともに革新的な製品を世に送り出した井深大(1908~1997)。20代の頃から井深の薫陶を受け、ソニーの副社長、副会長を務めた森尾稔氏が思い出を語る。
森尾氏
井深さんは好奇心の塊でした。
午後2時か3時頃になると、開発現場にふらっと入ってきて、私たち社員の机を覗き込む。「これ何?」と興味深そうに尋ね、新しい技術だとわかると「面白そうだね」とさらに知りたがる。技術の前では、社長も新入社員もない。井深さんと私は31の年齢差があっても、技術については対等に話せました。
私が入社した1963年頃は、指導教授から「あんな町工場みたいなところへなぜいくんだ」と言われたほど、ソニーは小さな会社でした。東京大学の電子工学科で就職を希望したのは私ひとり。大学4年の企業実習で五反田の工場に2週間ほど通ってみたら、職場の雰囲気はいいし、おもしろい仕事ができそうだからと選んだのです。
井深さんは、私が所属した半導体部の会議をのぞくこともありました。思い出深いのは、「トリニトロン」の開発です。私は入社4年目で、トランジスタの回路設計を担当しました。カラーテレビは64年の東京オリンピックから普及し、ラジオで忙しかったソニーは最後発で参入したばかりでした。
当時のカラーテレビは、部屋の明かりを消して観るほど画面が暗く、とにかく明るくすることが至上命題。真空管がないオールトランジスタのカラーテレビに挑戦していました。
その開発中に、井深さんは「キリリティ」という造語を生み出しました。解像度は同じでも、キリッと映るブラウン管とそうでないものがある。「こっちのほうがキリリティが高いな」と言い出したのです。既存のモノサシに縛られない井深さんらしい評価基準でした。
井深大
トリニトロンという商品名を考えたのも井深さんです。あの明るい画面は、1本の太い電子銃から3本のビームが出る新技術で実現しました。開発部の吉田進、大越明男、宮岡千里の3人が苦労して完成させたものです。クリスチャンだった井深さんはトリニティ(三位一体)とエレクトロン(電子管)を組み合わせて命名したのです。
デザインも独創的でした。当時の主流だった立派な家具調は、井深さんは「仏壇スタイル」と呼んで嫌っていました。「画面だけあればいい」と機能美を追求したのです。
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source : 文藝春秋 2022年1月号