「文藝春秋」が伝えた政治家の肉声

創刊100周年記念企画

曽我 豪 朝日新聞編集委員
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物議を醸すことを厭わず、時に旗を掲げ、時に驕るなかれと権力者を諫める。政治家の情熱溢れる言葉の数々

平成10(1998)年10月号「わが救国宣言」梶山静六

 もうふた昔も前になるが、齢70歳を超えた「政局職人」がこの手記を一心不乱に手直しする姿がまるで昨日のことのように思い出される。

「わが救国宣言」という表題は梶山静六の本望だった。

「現在のわが国の深刻な不況は本質的に『金融不況』なのであり、金融システム不安の根底に横たわる金融機関の『不良債権問題』を解消しないかぎり、日本経済は再生への第一歩すら踏み出せないのではないか」

 正面から時のアジア経済危機に向き合い、大胆な不良債権処理策の旗を立てたのである。

 衆院議員会館の自室に籠り、付箋で膨れた資料を机に山と積んで、何色ものラインマーカーを使って書き振りを確認、剛腕のあだ名にも似合わぬ小さく几帳面な文字で朱を入れる。政局話を振っても一向に耳に入らぬ風で、梶山の姿には大袈裟でなく鬼気迫るものがあった。

 当時、通産省の某氏らゴーストライターの存在がまことしやかに噂されたが、たとえアイデア程度は出したにせよ、あの文章が官僚に書けるはずがなかった。

 冒頭で「鈍い音をたてながら崩れつつあるとしか思えない日本経済――私がその危機の実相に初めて眼を開かれたのは、昨年秋に橋本龍太郎内閣の官房長官を辞してのちのことでした」と記し、危機への対応はおろか、認識さえ怠っていた己について「政権の中枢にあった者としての懺悔」を告白する。

 夏の参院選で自民党が惨敗し橋本首相が退陣した直後だったが、それについても梶山は「間違いなくわが党の政策の失敗にある」と敗因を見定め、「それに気づいた後も、いままでの惰性から抜けきれず、不良債権処理に臆病になり、有効な政策を打ち出せなかった」と認める。

 手記は、破綻した大手銀行に対し株式を減資させることで経営者と株主に責任を取らせ、同時に新株を優先的に国が買い上げる「オープンバンク方式」による不良債権処理案を提唱する。ただ、情報の開示と金融行政の責任追及を求めるラジカルな案には、当然の前提として政治家の側の「責任」の取り方もまた、深く意識されていた。

「国家的危機の前では、与党も野党もありません。(中略)私は数を恃たのむつもりはない。政策の旗を掲げるのみです」

「歴史の幕を引くのは万事、事なかれの無気力に他なりません。(中略)今、政治家が真に訴えるべきは、日本の将来への確信と、そのために全国民が試練の道を歩まねばならないという決意なのです」

 手記を発表する直前、自民党総裁選で梶山は小渕派を離れて小渕恵三と闘って敗れた。だが「派閥に依らずとも旗を立てれば勝負出来る」と言い、総裁選前夜には「新しい自分を見つけたよ」と筆者に電話で告げた。政局の腕でなく政策の旗の力を実感した者の言葉である。

 だが、昔の人は偉かったとつまらぬことを書けば、あの世から梶山の怒声が飛んでくるだろう。

 今改めてあの総裁選で彼のもとに集った推薦人20人の名簿を見返せば、麻生太郎、菅義偉、野田聖子、そして林芳正の名前がある。

 麻生、菅の2人は、師匠と仰いだ梶山と同じように本誌の手記やインタビューで首相への意欲や覚悟を語った。野田は派閥に頼らぬ総裁選への挑戦を続ける。昨秋の衆院選後に外相に就いた林もまた、昨年11月号で「次の総理はこの私」と題した語りを残した。旗の系譜は脈々と続いている。

 危機や閉塞など時代の壁を乗り越えようとする時、政治家の言と文は研ぎ澄まされ磁力を帯びる。時代と政治家の限界も冷酷に浮かび上がらせる。筆者は文献考証の知見もない一介の政治記者に過ぎないが、その思いを頼りに100年の代表的な手記を読み進めていきたい。

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梶山静六

昭和9(1934)年9月号「新日本の姿を示せ―アメリカから帰って―」近衛文麿

 時代と大衆に選ばれし者の使命感と高揚、それ故の硬直さと独善。近衛文麿の手記には、いつの世も変わらぬ「時代の子」の明暗が色濃い。

 時あたかも日本が満州事変、満州国建国、国際連盟脱退と三段跳びで戦争の昭和へのルビコンを渡った直後、50日間に及んだ訪米の旅を綴った手記である。

 驚かされるのは、フットワークの軽さだ。現職のルーズベルト大統領から第一次世界大戦時のウィルソン大統領の元側近、民主、共和両党議員、ウォール街の大立者、陸海軍や外交、新聞関係者とまで会談を重ねて経済、外交論を闘わせる。大統領からは「NRA(全国復興局)のような急激な政策を行うことが果たしてよいか、悪いかは俄かに断定出来ない」とニューディール政策に対する不安の言葉を引き出し、大統領の訪日も要請してみせる。

 物言いの率直さは、五摂家筆頭の貴種のなせるわざか。ウィルソン大統領の懐刀だった某大佐(ハウス氏と思われる)は午餐の後、第一次世界大戦の経験を踏まえ「日本がこのまま進めば第二のドイツとなる怖れがある」と「日本攻撃」に及んだ。これら軍部の台頭を危ぶむ米国要人の問いに対し近衛の答えはこうだ。

「僕は、日本の政治が単に軍部の力のみによって方向づけられているものではなく、戦前当時のドイツの軍部と日本の軍部の根本的に異なる所以を力説した」

 米国における最初の演説で近衛はこう断じた。

「日米の真の親善はアメリカ人が『革新期における日本』即ち発展のために重大なる決意をもって、スタートを切った日本を深く認識することによって可能だ」

 ここから第一次世界大戦中に発表した論文「英米本位の平和主義を排す」以来変わらぬ「持てる国」への挑戦の姿勢が見て取れよう。

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近衛文麿

危機を軽く見る楽観論

 ただ、満州事変など「国策」を正当とする信念は訪米体験を経ても変わらず、ともすれば危機の度合いを軽く見る楽観論が手記の端々に顔を覗かせる。

 米国がなお世界恐慌から脱せられず、ニューヨーク郊外の別荘地帯で温室が「荒れ果てたまま」になり、邸宅や自動車、ボートなどの「売り物がさかんに出る」様を近衛の目は見逃さない。ただ、その観察眼が「アメリカ政府としても極東問題の具体的解決に乗り出すには、余りに国内的な問題が多すぎるようである」といった楽観につながるなら、見たいものしか見ない権力者の弊に陥っていたというより他ない。

 確かに近衛は、米国の世論は「満州国それ自体」より中国本土に対する「日本の動向について危惧の念を有している」と警鐘を鳴らし、「日本の動かすべからざる国策なる所以を彼等が真に認識するまでには相当の時日を要するであろう」と指摘するのだが、結局はこう結論づけるのだ。「故にこの機会に新しい日本の正しい姿を強く認識させなければならない」。

 最後、近衛は「岡田内閣組閣の第一報はニューヨークで知った。(中略)僕が予定よりも早く帰朝したのは家庭的な事情によるもので、政治的な意味は少しもない」と、言い訳めいたことを記す。これもまた、同じ海軍穏健派の斎藤実から岡田啓介への首相交代が自分と「新しい日本」への待望論を噴出させるとの自意識があったからに違いない。

 だが我々は「悲劇の宰相」の末期を知っている。近衛の現実主義は国際協調と政党政治の「守り本尊」だった元老・西園寺公望との離間を生む。西園寺は、かの訪米により近衛の対米観が変化することに期待したが、手記にあるようにそれは裏切られたのである。

 近衛は3度首相に就くが、「先手を取る」つもりが逆に陸軍に搦め取られて日中戦争終結も日米開戦回避も叶わなかった。開戦を避けるべく近衛が最後の切り札だと念じたのはかつて外交論を闘わせたルーズベルト大統領との頂上会談だったが、それも陸軍の抵抗で幻と終わった。

 敗戦後の昭和20年末、米国からの戦犯容疑に耐え切れず自殺した近衛の遺書には哀切な一節がある。

「僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさえそこに多少の知己が在することを確信する」(岡義武『近衛文麿』岩波書店)

 今もまた世界を覆うポピュリズムの危うさは排他性と独善にある。大衆の喝采は力になると思えて、迎合がもたらす負の側面を見誤る危険が伴う。近衛と日本の悲劇は、その10年余り前の手記において既に予兆があったと読むべきだろうか。

昭和37(1962)年2月号「私は隠居ではない」吉田茂

 軽い座談かと気を抜くと、戦後日本の復興を担った権力者の生臭い息遣いがいきなりあらわれて、どきりとさせられる。時に後の運命まで予見させるのだから、手記は怖い。

 吉田茂の晩年の語りは、軽妙自在な名人落語を聞く思いがする。つまりはマクラが長い。

「元の首相と会って話をしないかというんですか? そんな暇はありませんよ、首相なんて大体バカな奴がやるもんですよ。(中略)この世にこんな大バカはないように書かれますよ。あなたんところだってそうでしょう。そんなバカばかりが集まって話をしたって面白かろう筈がないじゃありませんか」

 歴代首相の人物月旦に飛ぶ。

「私は御承知のように、なりたくってなったわけでないので、鳩山(一郎)君の追放のあと頼まれてなったわけでね。(中略)鳩山君が俺に譲れ譲れというのを『大切なお役を中気病みに任せられるか』と云って大層恨まれてね。といってお国のためを思えば無責任なことは出来ませんからね」

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吉田茂

 毒舌が続く。

「その次が、(社会党首班の)片山内閣か。片山(哲)君とは何度か会ってますがね、普段つき合いがないから話がうまく運ぶかどうかな。(中略)となると、あとは岸(信介)君、池田(勇人)君と云うわけだろうが、どうです。あんまり面白い話は期待出来ないでしょう。私はイヤですよ」

 さすが、この2年前の訪米の際も健康法を尋ねた記者に「強いてあげれば、人を食っております」と答えた吉田だけのことはある。だが、マクラで終わりかと思った途端、いきなりこうくるのだ。

「欧州の自由国家間では相互の国境を実質的に撤廃して欧州を一国として見るような動きになって来ていますね。それでこっちでも、パシフィック・パクト(太平洋協約)というようなものを造って、カナダ、アメリカ、濠州などのような太平洋を囲む諸国と連繋を密にして対抗しなくてはと思うのですがね」

 冷戦激化による米国の対日姿勢の変化を嗅ぎつけるや、講和と独立へ一気に進んだ吉田である。今日の欧州連合(EU)を予期する辺り、死の5年前の手記にも確かに「隠居」感は微塵もない。孫の麻生太郎が掲げた「自由と繁栄の弧」構想も結局は隔世遺伝か、とさえ思える。

昭和29(1954)年1月号「兄弟は他人のはじまりか?―政界・あにおとうと―」岸信介・佐藤栄作

 一方、岸信介と佐藤栄作の対談はとにかく表題が出来過ぎている。この時点でよくも「兄弟は他人のはじまりか?」と付けたものだ。

 最初は他人行儀のかけらもない。

 佐藤「兄貴観はないが、兄貴とはこわいものというわけで……」

 「5つ違うと、子供のころは、それは絶対的ですよ(笑声)。それは吉田ワンマンと陣笠の違いよりもなお違うよ」

 だが、最後の兄弟の自問自答はいかにも暗示的である。

 「政界では一体岸と佐藤は仲がいいのか悪いのかということが大分問題になるらしいね。(中略)それよりぼくはだんだん弟に似てくると云われるんだよ(笑声)。これは定評なんですよ。岸さんはだんだん弟に似てくる。これはどういう意味なのか、喜んでいいのかどうか」

 佐藤「だんだん兄貴の方が若くなる。(中略)ラジオを通しての声になると、ものの云い方なんかも似ているらしいね。自分ではずいぶん違っているつもりなんだが……」

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佐藤栄作(左)と岸信介

 保守合同・自民党結党を翌年に控えた頃合いである。むろん、兄弟は池田勇人政権を挟んで共に首相に就き、日米安保改定と沖縄返還を仕上げる運命を知らない。安保改定の承認の日、デモが国会を取り巻くなか、首相の兄が蔵相の弟と2人きりで官邸に籠ってブランデーをやりつつ夜を明かすことも知らない。

 そして首相となった弟に対し兄がその憲法改正への不熱心さに飽き足らず自身の首相再登板に意欲を燃やし、「あまりにもだな、池田および私の弟が『憲法はもはや定着しつつあるから改正はやらん』というようなことをいっていたんでね」と『岸信介証言録』(原彬久編、中公文庫)で語り残すことなど、予想だにしていなかっただろう。

 兄弟は確かに政治的には他人のはじまりだったかも知れず、相剋の結果、改憲という岸の見果てぬ夢は孫の安倍晋三へと継がれてゆく。

昭和27(1952)年2月号「大蔵大臣はつらい―私は強い男であるらしいが―」池田勇人

 それにしても、手記が持つ自己予言性には空恐ろしくなる。池田勇人が蔵相時代にそれまでの半生を語った手記もそうだ。一種の「冷や飯のすすめ」とも読める。

「人間は何が幸か不幸か判らないが、私は少壮時代に大病に罹つた」

 天疱瘡という皮膚病である。

「家内も亡くし、地位も失つた。(中略)たまたま先輩から(大蔵省に)帰つて来いと言はれて、非常に低い地位で復活した」

「大蔵省をやめて代議士になつた。選挙で苦労することもなく、当選してすぐ大蔵大臣になつた。物事は順調過ぎてはいけない。そのために苦労が足りず、放言するとか、不謹慎だといつて叩かれるが、まつたく不徳のいたすところで(後略)」

「放言」とは例えば「貧乏人は麦を喰え」のことだろう。だが、これも実際は「所得の少ない方は麦、所得の多い方はコメを食うというような経済原則に沿ったほうへ持っていきたい」と国会で答弁したに過ぎない。新聞と野党が当時の「吉田ワンマン政権」を象徴する「放言」として攻撃したのだろう。

 ただ、手記の白眉はこれからを語った末尾にあるのだ。

「ほんたうの苦労をすれば、柔かみが出てくるのではあるまいか。また、もつと財政に明るくなつて、高橋是清さんのやうな人間になりたいと思つてゐる」

「この地位を去つて、2、3年も浪人してゐれば、きつと少しは人間が出来る」

 その通りになった。岸政権で一時非主流派となった池田は、ブレーンと側近らを集めて勉強会を作る。まさに禍福はあざなえる縄の如し。池田はその雌伏の時に、後に「所得倍増」の4文字で時代をひらく成長政策の旗と共に「宏池会」と名付ける派閥の原型を準備し得たのである。

 それを継がんとする岸田文雄首相はこの先達の手記を読んだろうか。

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池田勇人

昭和43(1968)年2月号「日本列島改造の青写真」田中角栄

 この手記を読むと、まさに「コンピューター付きブルドーザー」が未開の地を切り拓く光景が浮かんでくる。或いは、辻立ちで「角栄節」に魅了された昭和の聴衆の気持ちが分かるような気がする。

 この手記は、田中角栄が福田赳夫との総裁選に勝利して首相に就く四年前に書かれた。就任の前月に世に問うた『日本列島改造論』(日刊工業新聞社)は一大ベストセラーとなって列島改造ブームが日本を席巻したが、「青写真」とした手記はその雛形であり、荒削りな分だけフル回転の角栄節が際立つ。

 冒頭の政治のそもそも論からして迷いがない。

「政治とはなにか?

 むずかしく、ひねって考える必要はない。それは国民の生きていく基盤を整備することである。少なくとも、二十世紀後半から二十一世紀へと向かう日本における政治とは、総合的・長期的な国土計画そのものである。私はズバリそう考える」

 具体性と数字が身上である。

「今年一九六八年は、私たちの頭の中のたなおろしをする年である。(中略)ちょっと私たちの身のまわりがどうなっているかを見てほしい。住宅難、毎朝の通勤ラッシュ、公害問題……いわゆる大都市の過密問題にすぐ思い当たるであろう」

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田中角栄

 前年立ち上げた自民党都市政策調査会の目標について「せめて予測が可能な二十年先をみて、政策を洗い直そうと考えた」と説明、通勤ラッシュ対策のための「国鉄の七千二百億円でさえ、なかなか容易なことではない」うえ、全国の下水道を先進国のレベルまで上げるには「約十兆円もの金がいる」が、国の一般予算は「約五兆九千億」だと指摘する。

 昭和50年に首都圏で住民に1世帯あたり50坪の宅地を与えるとすると、必要面積は「なんと三千九百平方キロ」で、全関東の低地部の65%にあたり、昭和60年にはその90%を宅地化しなければならぬと勘定する。

 ここから一転、解決策を畳みかける。「私の考えでは、東京なら東京二十三区の全域を都市再開発地域に指定し、都市の高層化をはかり、土地の区画整地で緑地や道路をふやしていくことだ」とし、「ゴミゴミした環境のところに、千坪の土地をもっているよりも、環境が整備されたところに八百坪持っている方が、ずっと価値がある。差引きした二百坪は道路や公園のような公共用地に出した方が、結局その人もトクである」とあくまで算盤は実感主義だ。

「ところで、都市改造の資金はどうするのか」と自問し、「やはり民間から集める以外にない」「政府はあくまでも民間でやれない仕事、たとえば地域の指定、土地収用、換地などの誘導政策的な仕事をやればいい」と自答する。

 ただし、本音は最後に説く「地方開発」だろう。「過密、過疎の問題は、狭義の都市政策だけでは解決がつかない。総合的な国土開発計画の中で、はじめて効果的な投資が可能になってくる」と唱え、日本経済を「野球の投手」に例えて「身体全体をフルに使ったピッチングへと、フォームを大改造する」のが「地方の開発、そのための『先行投資』という考え方」だと説得にかかる。

開発と成長は絶対善

 それにしても「青写真」は天井知らずである。

「北海道の旭川から九州の鹿児島まで、表と裏に二本の新幹線を建設する。そしてそれを肋骨のような形で連絡する線、つまり日本列島を何本も横断する新幹線でつなぎあわせるのである。そうすれば、全国がいわば東京、大阪の郊外になるわけである」と論じ、そのコストを「四兆数千億円」と弾いたうえで「この程度の金なら、いまの予算の中でも十分消化できる」と太鼓判を押す。

 以上の国土計画について「社会党にかぎらず」「誰とでも同一線上に並んで協力してやっていきたい」と呼びかけて田中は手記を終えるのだ。

 開発と成長を絶対善と思う自信と現世利益の前にはイデオロギーの差はないと念じる政治観。経済危機のたび、「角栄待望論」が間欠泉のように噴出するのも不思議ではない。

 だが、田中首相が押し進めようとした「改造」は、私権の制限など都市政策調査会の大綱にあった歯止め策が消え、地価高騰と狂乱物価の歪みを現出させた。オイルショックが重なった不幸はあったにせよ、負の側面を予め勘定に入れる姿勢に欠けた点は否めまい。ひらめきの鮮やかさの陰に潜む盲点を見過ごしてしまう危険が旗手には常に付き纏う。

 それは何も、後世の後解釈ではない。狂乱物価の最中、田中内閣の中から政策変更を求める閣僚が現れてその肉声が本誌に載ったからだ。

昭和48(1973)年12月号「田中君よ、聞いてくれ」福田赳夫

 福田赳夫がこのインタビューで放った矢は表題通り的を田中角栄首相一人に絞る。実際、行政管理庁長官として「すでに決まっている五新幹線以外の新ルート建設は慎重に」と首相に直接申し入れた直後である。

 福田はまず「わが国の前途をおびやかしているのは、長期的にみれば資源問題、短期的にはインフレだと思う」とし、「有限の資源を荒す日本というんで、世界は脅威を感じるでしょう。(中略)政府は高度成長政策から安定成長政策に切りかえ、世界中から注がれている警戒の目をやわらげなくてはならん」と断じる。

 ただ、政策と政局を併せ語るのが権力政治家の本領だろう。聞き手が田中内閣の支持率は28.5%に低落したが、自民党の支持率はなお37.2%で野党の総計より高いと指摘すると、福田はこう解釈した。

「野党の諸君が政権構想なるものを発表しますが、国民の方はあんまりまともに受けとっていないということだね。やはり頼れるものは自民党だ、ただし、自民党政府に姿勢を直してもらわんと困りますよということですな。(中略)田中首相は政治をやる手順をまちがえていると思う。いまは、ボヤ(インフレ)を消すことが先決なんですよ」

 この辺り、結局は首相交代による政策の微修正で岸田文雄自民党が枝野幸男立憲民主党を退けた昨秋の衆院選を思い出させるが、それはさておき、福田は自民党政権の命脈を保つにはこれしかないとばかり、政策変更を論じ立てる。

「政党であれ、政治家個人であれ、政治的にハデなことをやりたいという気持ね、私にはよくわかるんですよ」としつつ「インフレ対策はあらゆる国策のなかで最優先させるんだという認識」を「田中首相に持ってもらいたい」と迫る。「このとうとうたる物価高の勢いはそれ(金融引き締め策)だけではとめられないですな」と決めつける。

 続く立論は、経済実感主義に立つ田中と明らかに違う、大蔵省主計局の俊英だった福田ならではのものか。

「一口にいえば、総需要の抑制策ということになるわけよ。(中略)金融引き締めちゅうのは、たった(総需要のうち)二割の設備投資に過重な負担をかけるわけですからひずみやゆがみが出て来るのも当然のわけだ。さあ、しからば、国民総需要の五割を占める国民消費に手をつけられるかというと、これはむずかしい」

「となると、残りは財政……。これに対して抑制の姿勢をとることが必要なんですね」「私は国民の福祉を抑制せよと主張しているんじゃない。物を大量に使う面、つまり公共投資ですね。(中略)予算で公共投資の抑制がどれだけ実行できるか、その辺が焦点になるでしょうね」

 むろん、今風に言えば政敵との差異化は怠らない。

「私はね、地価暴騰といわずに地価狂騰といってるんだが、これが社会全体に与えた影響は何かというと、弱肉強食の思想を植えつけてしまったことです」「なにかというと新幹線をひっぱり出すそのいいふらし方がインフレを加速するんじゃないかといってるんです」

 だが最後、次の内閣改造で閣外に出る意思はあるかと問われると福田は「今は閣僚として、田中首相にあやまちをなからしめることに全力をつくしている段階でしてね」と明言を避けたうえで「本当に重大な問題を総理に進言するときはサシでします」と語ったのである。

 果たして直後、福田は愛知揆一の急逝に伴い後任の蔵相に就く。田中首相から全権委任される形で総需要抑制策を発動、インフレの鎮火に努めた。日本経済は「全治三か年」とはまさに「列島改造」の後を襲ったその時の福田の名文句である。

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福田赳夫

「政局より政策」の空論

 戦国時代とまで評された「三角大福中」の権力闘争の凄まじさを筆者は物の本でしか知らない。しかしそれも決して政局にだけ偏したものではなく、政策の旗により競う面が確かにあったことが、田中と福田の「論争」から読み取れよう。

 政局の安定には政策の正しさが必要であり、同時に政策を完遂するためには政局の不安定化は避けねばなるまい。今も「政局より政策だ」と訳知り顔で言う論者が後を絶たないが、それがいかに机上の空論であることか。

平成4(1992)年6月号「『自由社会連合』結党宣言」細川護熙

 筆者が目撃した平成初年以来の政治史においても、世論を喚起した旗は幾つもあった。小泉純一郎首相は「郵政民営化」の旗一つきりで衆院を解散し、「抵抗勢力」と名指しした自民党の内なる敵を殲滅してみせた。「政権交代」のスローガン一つで自公連立政権を下野させた民主党政権もそうだった。

 だが、手記一本で政治の潮流を変えた鮮やかさで言えば、細川護熙のこの「結党宣言」が一番であろう。

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source : 文藝春秋 2022年2月号

genre : ニュース 政治 昭和史 歴史