岩波書店は1913年、岩波茂雄が立ち上げた古書店を原点として、来年で110年を迎えます。
「文化の配達夫」を自任していた茂雄は、創業の翌年に処女出版である漱石の『こゝろ』を刊行以降、岩波文庫(1927年)、岩波講座(28年)、岩波新書(38年)といった、いまでは一般名詞になっている出版の形態を考案、刊行するなど、進取の精神にあふれた人物でした。
それだけでなく、大変な商売人でもあったでしょう。だからこそ書店は、その存続が危ぶまれるほど厳しい言論統制下の戦中から敗戦期を、好調な業績を維持しながら生き延びることができました。その詳細は述べずとも、当時、その威信が頂点に達していたことは、茂雄が1945年3月に多額納税者として貴族院議員に補選され、翌年2月には戦後初の文化勲章を受章することからも推察できます。
しかし、1世紀を超える歴史ある企業になると、文化の「種をまく人」たる茂雄のお行儀のよいことば―たとえば「低く暮らし高く想う」「文化の撒水夫」などは残っても、創業者特有の、熱情にあふれ、挑戦的で躍動的に事業に取り組む姿勢や、それを支えていた野性的な精神、企業存続のためには何事も厭わぬ強かさといったものは、やはり失われてしまうのでしょう。
「“看板”以外は全て変えるぐらいの気持ちで」―岩波書店の社長就任にあたって、私が応じたインタビュー記事のタイトルです。
出版界はいま、激動の秋を迎えています。2020年の統計によると、書籍・雑誌の推定販売金額は16年連続で前年を下回り、書店数も99年から半減し、1万1000店にまで減少しています。他方で電子出版は大幅に伸張し、前年比28%増、出版市場全体での占有率は四分の一近くを占めるまでに成長しました。こうした市場の変化を受け、流通面での改革も待ったなし。茂雄が直面した戦中期の困難と様相は全く異なりますが、業界の地図が大きく変わる、かつてない重大な局面を迎えていることはまちがいありません。
この事態にどう対処すべきか。なにができるのか。迷わずにはいられません。これまでどおりのことを繰り返すだけなら、苦もないことです。ただ、ひとつだけ明確なのは、それでは立ちゆかないということ。このままでは早晩、「看板」を降ろさなければならなくなるということです。
「この会社の常識は、世間の非常識」―そう嘯いていた人たちが、立場が変わると恬として恥じず、その「非常識」を「常識」としてふりまわす。「常識」を変える(「非常識」を正す)ことは難しい。そうでなくても、慣習として長く組織に浸透してきたものを見直すには大きな抵抗が伴います。それに抗って、嫌われ煙たがられ、苦労してまで損な役回りを担う必要があるのか。そう思えば、長い物には巻かれよ、という声がどこかから聞こえてきても不思議はありません。どの組織でも往々あることでしょう。
しかし、もうこのあたりが限界でしょう。創業当時の進取を尊ぶ気風や、商売人としての強かさを取り戻し、変わることを恐れず、これまでのあり方を疑い、リセットすべきときです。この「看板」が培ってきたものを裏切ることなく、これからも岩波書店が担うべき社会的使命を果たし続けるためには、いまこそ変化が、刷新が必要です。
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source : 文藝春秋 2022年2月号