国家神道への隷属の果てに起きた廃仏毀釈の嵐と大本教への大弾圧(構成:栗原俊雄)
保阪氏
「与えられた象徴天皇制」
象徴天皇制が大きな曲がり角に差し掛かっている。秋篠宮家の長女・小室眞子さんの結婚が、国民が抱いてきた皇室へのイメージを一変させ、世論の分断も招いているからだ。皇室は戦後長らく国民の融和と統合の象徴であり、国民は皇室に尊崇と敬慕の情を抱いてきた。そうした構図が変わってしまいかねない瀬戸際に、今、私たちは立っている。
なぜこうした事態に至ったのか。それは国民の側も皇室側も「象徴天皇制」というシステムを本質的な深い部分で理解してこなかったからではないかと考えられる。
前回の本連載では、「議会政治」というシステムがなぜ近代日本で根付かなかったのかを詳しく見た。明治維新以来、多くの犠牲を払って議会政治が根付いたかに見えたが、結局は大正末期以降、国家主義に呑み込まれてしまった。そして敗戦後は連合国側の手によって議会政治が復活したが、「与えられた議会政治」であるがゆえに、今なお日本人には議会政治に対する理解が欠如している。——これと同じ構図が、連合国側が主導するかたちで導入された象徴天皇制にも言えるのではないか。
明治維新によって天皇を中心とする国づくりが進められた。だが、当時の人々は自分が属する藩こそが「国」であり、「日本国民」という意識は乏しかった。「国民」を創るうえでは、法令だけではなく国民に広く浸透する形而上的なもの、つまり思想や信仰が必要となる。そこで新政府は、天皇に連なる信仰、すなわち神道をその柱に据えた。
国家主義化した神道は、それまでの日本に根付いていた宗教や信仰を呑み込んでいった。また、幕末から維新にかけて勃興した諸宗教もすべて国家神道、すなわち天皇の下に位置づけられた。近代日本は、いわば「国家神道の下での宗教の自由」を認めてきたにすぎない。
そして戦後は国家神道が解体され、「与えられた象徴天皇制」の下で私たちは暮らしてきたのである。
このように考えると、明治維新以降の日本の宗教のあり方を問い直すことが必要になってくる。今回は、日本の宗教界を呑み込んできた国家主義の地下水脈を見てみたい。
幕末の新宗教ブーム
嘉永6(1853)年、ペリーが率いる米東インド艦隊の軍艦4隻が江戸湾に来航すると、社会には不安が広がった。その後、開国にともない、コレラが日本国内に蔓延した。
安政元(1854)年には東海、南海地方で大地震が発生。被害は伊豆から四国まで、死者数千名、倒壊家屋3万軒以上となった。翌年10月には江戸を中心とした大地震が起き、江戸市中だけで死者はおよそ1万人に達した。
政情不安と経済の混乱は庶民の動揺を招き、一揆や打ち壊しが多発した。幕藩体制が盤石な時にも一揆はあったが、年貢の減免などを求める切実な要求であった。しかし幕末には「世直し」を掲げ、幕藩体制そのものに挑戦する一揆が起き、規模も拡大した。
そうした中、各地で新宗教ブームと呼ぶべき状況が生まれた。とくに黒住教、天理教、金光教は「幕末三大新宗教」と呼ばれている。
黒住教は文化11(1814)年、備前国御野郡上中野村(現・岡山市上中野)で岡山藩の守護神社・今村宮の神官であった黒住宗忠が開いた。幼少期より信仰の篤かった宗忠だが、33歳の時に両親を相次いで亡くし、自身も肺結核に罹患してしまう。死を覚悟した宗忠が1月の朝、最後と思って日の出を拝んでいたところ、自身の内面に今までの反省と感謝の念が沸き起こり、病を克服することができたという。そして同じ年の冬至の日(旧暦)、日の出に祈りを捧げていると、宗忠は全ての命の親神である天照大御神と神人一体になり、悟りの境地を得た。この天命直授をもって、黒住教立教の時としている。
天理教は天保9(1838)年、大和国山辺郡庄屋敷村(現・奈良県天理市三島町)の浄土宗の熱心な信者だった中山みきが教祖となった。同年10月26日の深夜、みきは長男の病の回復のために、山伏に祈祷を依頼した。この時、憑依状態に陥ったみきが「我は天の将軍なり」「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい」と語り、親神天理王命がみきの語りを通じて天啓を授けたという。
金光教は安政6(1859)年、備中国浅口郡大谷村(現・岡山県浅口市大谷)で、地元の豪農だった赤沢文治(川手文治郎)が創設した。古来より当地では天地金乃神が地元の祭神とされてきたが、この年の9月10日の夕刻、文治(当時46歳)は天地金乃神から以下のような「お知らせ」を受けたという。
「なんとか家業をやめてくれんか。其方42歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし、その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。(中略)神も助かり、氏子も立ち行き、氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」
この「あいよかけよ」とは備中方言で「お互い助け合って」の意味である。つまり、神と人、人と人とがお互いに助け合って行くべきだとの教えを軸に据えている。
これら幕末三大新宗教は「神道13派」に数えられ、政府公認の神道の一派と位置づけられていく。
「国民」をつくる必要性
なぜ、明治新政府は幕末期の新宗教を神道のなかに組み込もうとしたのだろうか。それは、新政府が中央集権的な国家の設立を急いだことと密接な関係がある。
15代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返上することを申し出た(大政奉還)が、朝廷がただちに全国を統治できるわけもない。慶喜は、諸藩の合議による連合政権を作り、徳川家がその主導権を握るという意図を抱いていた。
しかし、薩摩藩と長州藩、そして岩倉具視はその狙いを阻止すべく、「王政復古の大号令」にこぎつけた。それは幕藩体制を否定した、新しい政府の樹立であった。大号令のなかで「百事御一新」も宣言された。その結果、欧米先進国の社会制度や文化、思想や国民生活などが一気に日本に流れ込むことになった。
一方、大号令は「諸事神武創業の始」に基づくことも宣言していた。平安時代以降、政治は摂政や関白、征夷大将軍などが司ってきた。これをやめ、神武天皇の時代のように天皇自らが政治の中心となり、さらに祭祀の主宰者ともなる「祭政一致」を目指すという理念である。
江戸時代、幕藩体制下の日本は、それぞれの藩が法令や租税などの独自の統治ルールを持ち、疑似的な連邦制国家であったといえる。そこに近代的な意味での「国民」はいなかった。そうした中、明治政府は欧米列強と対峙すべく、急いで統一国家を建設し、それにふさわしい「国民」を育てなければならなかった。
国民意識は、形而上的なものである。それを作るために用いられたのが天皇であり、神道であった。
仏教という壁
政府は神道を国教化するために、神社制度を整備していった。古来より朝廷が管理していた官幣社と国司が管理していた国幣社を再興し、社格を規定した。
また戊辰戦争の戦死者を祀るために、明治2年、東京に招魂社が設けられた。明治12年には靖国神社と改められ、別格官幣社として位置づけられた。日本は明治27年の日清戦争以来、日露戦争、第1次世界大戦と、およそ10年ごとに戦争を繰り返した。国の事業としてこれら戦死者を祀る施設が必要であり、それを一手に引き受けたのが靖国神社だったのである。
ここで注目すべきは、明治政府が『古事記』や『日本書紀』という神話の世界に国家の起源を規定したことである。神武天皇は実在したわけではない。だが、天皇をその子孫と位置づけ、神話を事実として祭祀、宗教政策を進める道を選んだのだ。
その一環として神祇官を再興した。7世紀後半の天武、持統天皇の時代に設けられた官職である。政治を司る太政官と並ぶ格で、重要な官職であった。中世以降は衰退していたその神祇官に政府は国学者や神官を登用し、神道を国教とする意思を鮮明にした。
しかし、神道の国教化は壁が厚かった。まずは仏教の壁である。江戸時代、仏教宗派と寺院は幕藩体制を支えていた。たとえば「寺請制度」によって、現代でいう戸籍事務を扱っていた。これは、禁制であるキリシタンでないことを檀那寺に証明させるため、各寺院は幕府や諸藩に信者の名簿を提出するというものである。神道はこうした機能を果たしていなかったため、とかく仏教勢力は神道を圧倒する立場にあった。
しかも江戸時代は神仏習合が進んでいた。そもそも幕府の開祖である徳川家康自身、その死後には「東照大権現」の神号を朝廷から贈られている。権現とは、仏教の仏が仮の姿で日本の神として現れたものとする本地垂迹思想による神号である。
廃仏毀釈の大嵐
こうした状況を打破すべく、明治新政府は「神仏分離令」(明治元年)、「大教宣布」(明治3年)などで神道と仏教の分離を進めた。
そして、仏教を排斥する「廃仏毀釈」が進んだ。仏像を破壊し、釈迦の教えを否定する運動が各地で行われた。貴重な寺院や仏像、経巻、仏具が破壊されたり焼かれたりした。象徴的なのが大和の興福寺だ。平安時代に栄華を極めた藤原氏の氏寺であり、中世には巨大な政治勢力でもあった。幕藩体制下でも寺格は飛び抜けて高く、公家の子弟が僧侶となっていた。ところが廃仏毀釈のあおりで、僧侶は藤原氏の氏神であった春日大社の神職に回された。
僧侶がいなくなった興福寺は荒れ果てた。シンボルである五重塔は、ただ同然で売却された。買い手は塔を焼いて金具を手に入れようとしたが、延焼を恐れる付近の住民の反対であきらめ、辛くも残った。もし焼かれていたら、現在は国宝にも世界遺産にもなっていない。
仏教排斥の動きは全国各地で激化した。倒幕と王政復古を推進した志士たちは国学の影響を少なからず受けており、また幕藩体制下では僧侶に圧倒されていた神職者たちの不満もあった。また領主としては、領地などの財源を抱えていた寺院からそれらを奪取する経済的な狙いもあった。こうした思惑も重なって、旧諸藩の中には極端な例もあった。ことに激しかったのは薩摩で、藩内のすべての僧が還俗させられたという。
明治新政府が排除の対象としたのは仏教だけではない。とりわけキリスト教は最大の排除対象であった。
庶民に新政府の施政方針を示した「五榜の掲示」に、それが現れている。五榜の掲示は明治天皇が神々に誓った「五箇条の御誓文」(明治元年3月14日)の翌日に発せられ、幕藩体制時代の高札と同じく、法令や禁令を板に墨書し、人目につきやすい場所に掲示された。5つのうち、最初の3枚は、永年掲示することとされていた。つまり、民衆統治の根幹となった。
第1札は「五倫の道」、すなわち儒教の倫理の順守を説き、殺人や盗みなどを禁じている。第2札は「徒党」すなわち集団を形成して為政者にさまざまな訴えをする「強訴」を禁じ、居住地を立ち退くことを禁じている。要するに、民衆が政府に刃向かうことを恐れていたのだ。
キリスト教への弾圧
そして第3札は宗教政策であり、こう書かれていた。
「切支丹邪宗門の儀は堅く御制禁たり。若し不審なる者これ有らば、其筋の役所へ申し出るべし。御褒美下さるべく事」
「御一新」したはずの政府が、キリスト教については幕府と同じく禁教としたのだ。幕末、フランス人が長崎の大浦に天主堂を建てたところ、200年以上も信仰を守り続けてきた「隠れキリシタン」が姿を現した。幕府としては取り締まるべきところだが、フランスは幕府にとっての友好国で、財政も軍事も頼っていた。このため徹底的な宗教弾圧は控えられていた。
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source : 文藝春秋 2022年2月号