藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』は、短篇連作のようなかたちをとった長篇小説だが、その真ん中あたりに「梅咲くころ」と題した一章がある。
清左衛門がある会合からの帰りみち、足軽屋敷のはずれを通りかかったとき、ふと甘い花の香を感じて足をとめる。生垣の内側から梅の木が枝をのばしていて、ぽつりぽつりとひらきはじめている白梅が見えた。こんなふうに描かれている。
《歩いているうちに日が暮れてしまったらしく、低い空にははやくも薄墨いろの暮色がただよいはじめ、見上げる梅の花も真白ではなかった。暮色に紛れて、白梅はややいろが濁って見える。だが匂いは強かった。》
今年はじめて見る梅の花を、立ちどまって眺めていると、前髪をつけた少年が2人、清左衛門に挨拶をして通りすぎた。2人とも風呂敷包みを抱えていて、塾か藩校からの帰りなのだろう。東北の小藩である海坂藩に生きる、隠居の身の清左衛門は少年たちを見送り、ふたたび歩きだした。
帰宅すると、隠居部屋に茶をはこんできた嫁が、いう。松江という30ごろのきれいな女性がたずねてきた。江戸のお屋敷でむかしお世話になったことがある、とか。もう一度来るといって帰った。
もう何度かこのくだりを読んでいる私は思う。そうだ、清左さん、15年ほど前の、あなたが用人に抜擢されたころの、あのいい話ですよ、と。そのエピソードはむろん次に書かれているのだが、読者である私もちょうど遠い記憶をたどるように、松江の一件を思いだしながら読み進むのである。
用人になりたての清左衛門は36歳、奥の老女に呼ばれて、秘密の用件の始末をつけるよう依頼される。
松江という奥方さまお気に入りの女中が、男にだまされて自害をはかった。男は村川某という、派手な女遊びで名を売っている、小姓組の若者。松江は用をいいつけられて清水屋という呉服屋に行くべきところ、村川としめし合わせて呉服屋近くの料理茶屋に入った。そこで村川が別れ話を持ち出したところ、突然に懐剣で喉を突いた。
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source : 文藝春秋 2022年3月号