札幌四人襲撃事件

羆を撃つ(上)

伊藤 秀倫 ライター・編集者
ニュース 社会 働き方
街中で人間を襲い続けるクマにハンターは……

「ヒトが襲われた!」

 北国の夏は、夜明けが早い。

 2021年6月18日、東京における日の出は午前4時25分だったが、札幌では同3時55分に早くも太陽が顔を出した。初夏の陽光は、人間社会に現れた“異形”をも照らし出した。

 午前5時38分。

 既に起床し、朝刊を読んでいた斎藤羊一郎(74)の携帯電話が鳴った。斎藤は「一般社団法人 北海道猟友会」札幌支部で支部長を務めるハンターで、ヒグマ防除隊の隊長でもある。電話の相手は、ヒグマ対策を担当する札幌市環境局の職員だった。用件は想像がついた。だが〈こんな朝っぱらからクマのヤツ……〉と独り言ちながら電話に出た斎藤が耳にしたのは、想定外の内容だった。

「隊長、北十八(条)の東六(丁目)に出た!」

 思わず「はぁ!? 何言ってるの?」と間の抜けた声が出た。ハンター歴45年、札幌でヒグマが出没する可能性がある場所は、すべて頭に入っている。だが「北十八(条)の東六(丁目)」といえば、1日約20万人が利用する札幌駅から直線距離で2キロと離れておらず、クマが出ることは、まずありえない場所だった。

「『何言ってる』って、クマが出たという情報があったんです! とりあえず私ども、向かいますんで」

「わかった。オレも行きますよ」

 防除隊の副隊長である藤井和市にも声をかけ、とにかく現場へと向かうことにした。大急ぎで準備を整え、ハンターシューズの紐を結んでいるとき、再び、携帯電話が鳴った。

「どうした?」

「ヒトが襲われた!」

 斎藤が「正直にいうと……」とこの時のことを振り返る。

「この瞬間までは、まあ十中八九、大きな犬かなんか、見間違いだろうな、と思っていました。でもこの一言ですべてが吹っ飛んだ」

 人間の生活圏のど真ん中に突如現れたヒグマが、4人に重軽傷を負わせた「札幌市東区ヒグマ襲撃事件」は、こうして幕を開けた——。

斎藤羊一郎
 
ハンターの斎藤氏

史上最悪の死傷者数

 2021年は、ヒグマと人間社会との歴史において、特筆されるべき年となった。統計が残る1962年以来、ヒグマによる死傷者が史上最悪となる12人(死亡4人・重傷6人・軽傷2人)に達したのである。ヒグマの保護管理に関わる調査・研究を行っている「北海道立総合研究機構(以下・道総研)」による現地調査に基づいて道が発表した資料や報道をもとに、死亡事故の状況をまとめると以下のようになる。

 (1)道東・厚岸町の事故

 4月10日午前10時40分ごろ、厚岸町の山林で、夫婦で山菜採りをしていた60歳の男性がクマと遭遇し、頭部に損傷を受け死亡。現場近くで冬眠穴と立ち木に挟まった子熊の死骸が発見されたことから、動けなくなった子熊を「守る」ために母熊が襲ったと考えられる。男性は妻より100メートル以上先行していた。

 (2)道南・福島町の事故

 7月1日朝、福島町に住む77歳の女性が農作業のために畑に向かったまま行方不明となり、翌日、畑に隣接したスギ林の近くで遺体となって発見された。遺体には激しい損傷があり、付近に繁茂するササなどがかけられていた。

 (3)道北・滝上町の事故

 7月12日午前11時30分ごろ(推定)、神奈川県から観光で訪れた69歳の女性が、浮島湿原に向かう林道上を1人で歩いていたところクマに襲われ死亡。現場は左にカーブする屈曲点で見通しが悪く、人間とクマがお互いに気づかず“出会い頭”で遭遇した可能性が高い。

 (4)道央・夕張市の事故

 11月24日、「山に行く」と猟に出かけた53歳の男性ハンターが戻らず、翌日、警察によって遺体で発見された。遺体にはクマによると見られるひっかき傷や咬傷があり、遺体近くからは猟銃の他にクマの血痕も見つかった。

背中に2本の爪痕

 なぜ今、クマと人間との軋轢がかつてないほど高まっているのか。これらの事件の現地調査を行った道総研の釣賀一二三・研究主幹は、その背景をこう説明する。

「ひとつには近年クマの生息数が増えて、密度、分布域、出没する場所も拡大していることが挙げられます」

 生息数が増加した理由として必ず指摘されるのが「春グマ駆除制度」の廃止である。戦後、北海道においては人口が急激に増加し、大規模な森林開発などが進んだ結果、生息圏を追われたヒグマによる家畜や人身への被害が相次いだ。そのため、「個体数減少策」として1966年に導入されたのが「春グマ駆除制度」だ。

 足跡を追いやすい残雪期に冬眠明けのクマを中心に無差別に捕獲する同制度の“効果”は恐ろしいほどで、一部の地域では絶滅が危惧されるまで減少したと考えられた。

 こうした状況を受けて、北海道は撲滅から共存へと180度方針を転換、1990年に春グマ駆除を廃止した。「クマとの共生」を掲げて30年を経た今、その個体数は着実に回復し、道総研によると2020年末における個体数推定の中央値は、全道で約1万1700頭となった。

 春グマ駆除廃止で変化したのは生息数だけではない。

「クマにも捕獲しやすい個体とそうでない個体があります。人間に警戒心を抱かず寄ってくる個体は捕獲しやすいし、春グマ駆除ではそういう個体が多く捕殺されていたと思われます。ところが人間が積極的に山の中に入ってクマを捕獲することがなくなると、そういう個体も生き残る。だから人間に対する警戒心が薄い個体が近年、人間の生活圏近くに出没するようになった可能性もあります」(同前)

 ときに“人慣れクマ”と称されることもある新世代の登場である。だが、こうした現状を踏まえた上でも「まったくの想定外」と専門家が首をひねるのが、前述した「札幌市東区ヒグマ襲撃事件」なのである。

〈篠路町上篠路92付近に黒っぽい動物がいる〉

 6月18日午前2時15分に市民から寄せられた110番通報が、この事件に関する第一報である。以降、同様の目撃情報が相次ぐ中、5時55分、最初の被害者が出る。被害者は70代男性で、事件直後、テレビカメラの前でこう語っている。

「ゴミ投げて(=捨てて)戻ってきたら、(隣家との間を指差しながら)クマがここから来たのさ」

 男性は逃げようとしたが転倒、走ってきたクマに「後ろからどんと乗っかったみたいに」踏まれ、背中に2本の爪痕ができたという。

 冒頭の場面で、ハンターの斎藤が「ヒトが襲われた」と連絡を受けたのがこの最初の事故だったのだが、続けざまに第2の事故が起きる。

 6時15分、最初の現場からほど近い住宅街で、80代女性がやはりゴミを出した後、クマに遭遇し、逃げようとしたところで転倒、背中を踏まれて軽傷を負った。

 出動した斎藤が初めてクマの姿を確認したのは6時30分過ぎ、この第2の現場近くの「イオン札幌元町店」の敷地内においてだった。

「イオンに着いたら、もう野次馬が20人ばかしいたかなあ。『クマどこにいる?』って聞いたら、『奥の方、イオンと(隣接する)小学校の間の茂みにいる』と」(斎藤)

100針以上を縫う重傷

 この時点ではまだ斎藤1人だったが、とりあえずクマの姿を確認するため、クマがいると思しき場所に回り込むと、1人の若者がスマホをかざしているのに出くわした。

「いるのか、そこに?」

「います!」

「だったら下がれ! 危ないぞ」

 若者の危機感のなさに呆れながら、場所を入れ替わって斎藤がのぞきこむと、確かにクマはそこにいた。

「まん丸な顔して、興奮して、こっち睨んでるのさ。これはなかなか立派なもんだな、と思った」(斎藤)

 撃つチャンスはあったが、ここで撃つわけにはいかなかった。住宅などの密集地でハンターが猟銃を発砲するには、同行した警察官から警察官職務執行法第4条に基づく「発砲命令」を受ける必要がある。これは天災や人災など突発的な事故に際して、警察官がその場にいる民間人に対して危険防止のために必要な行動を命令できるという法律で、この発砲命令があって初めてハンターは鳥獣保護管理法違反や銃刀法違反の刑事責任を免れるのである。

 6時40分、防除隊副隊長の藤井や警察、市の職員も合流し、クマを確認、対応を協議するが、この時点では、まだ発砲命令は出ていない。そうこうしている間にクマは茂みを利用して逃げ出してしまった。

 クマが逃げた方へ車を走らせていると、住宅街の一角を疾走する黒い塊を斎藤の目が捉えた。

「いた!」

 同時にクマの前を歩く人の背中に気づいた。声を上げる間もなかった。クマは後ろからその人に襲い掛かると、引きずり倒して攻撃を加え、走り去った。被害者にかけ寄った警察官が「あっちへ逃げた!」と指さした方向へとハンドルを切る。倒れた被害者の姿が一瞬目に入った。ピクリとも動かない。斎藤の中に「コイツ(クマ)を絶対に許すわけにいかない」という感情が湧き上がった。

自衛隊員まで襲われた

 3人目の被害者となった40代男性は命に別状はなかったものの、肋骨を6本折り、100針以上を縫う重傷を負った。この3件目の襲撃については、後ほど改めて検証する。

 その後、斎藤らは付近の小中学校のグラウンドなど目撃情報のあった場所をしらみ潰しに捜索するが、“空振り”が続く。だがこの頃には、警察のヘリも捜索に投入され、斎藤の車の後部座席に乗り込んだ警察官にヘリからの情報が入るようになっていた。網は確実に狭まりつつあったが、またしても犠牲者が出る。

 4人目の被害者は、自衛隊丘珠駐屯地に勤務する自衛隊員だった。

 この日、同駐屯地がクマの出没情報を認知したのは7時15分ごろ、周辺を走るパトカーによる広報によってだった。隊員が出退勤する時間帯だったため、正門の門扉を半分だけ閉めて、クマの侵入に備えるよう指示が出されたという。さらに隊員に対しては、場所柄、基地に一定数常備されている「クマ除けスプレー」を携行するよう指示もあった。

 正門の警備を担当するA隊員もスプレーを所持し、半分閉められた門扉に立った。

 ちょうどその頃、北海道文化放送(UHB)のカメラが車中から、住宅地を走り抜け、丘珠空港通りを横断するクマの姿を捉えていた。通りを渡ったクマは、自衛隊の敷地脇の歩道を疾走し、正門に突進していく。

 時刻は7時58分。UHBの動画には、〈自衛隊の門を入ろうとしています!〉という緊迫した声も入っている。

 クマと対峙する恰好になったA隊員は取材に対して、「門に向かってきたときから、かなり興奮してパニック状態に見えた。走ってくるヒグマを見て恐怖を感じた」と証言した。A隊員は、同僚隊員と2人で指示通りに門扉を必死に閉めようとしたが、クマの頭部が門扉に挟まってしまった。クマは前肢で強引に門扉を開けると敷地内に入ってきた。A隊員は後ずさりしたが転倒、クマは覆いかぶさるようにして、左わき腹に噛みついた。A隊員は、左胸から腹部にかけて裂傷を負った(軽傷)。

 駐屯地に侵入したクマは「飛行場地区」の滑走路を横断し、柵を南東方向から乗り越えて、駐屯地の外へと走り去ったが、上空からヘリがその姿をしっかりと捕捉していた。

 クマは畑の周囲にめぐらされた深い側溝を抜けて、駐屯地から300メートルほど北にある緑地に入り込むと、ようやく動きを止めた。ほどなく斎藤や警察、市役所の職員らも現地に到着し、周辺の人々を退避させたうえで、対策会議を開いた。

 ここが最後の現場となる。

画像3
 
茂みに隠れていた

「“止め足”使ったか?」

 現場は畑とビニールハウスの間にある横30メートル、縦50メートルほどの空き地で、上空から見ると右辺を側溝に接し、下辺にイタドリなどの雑草が生い茂る茂みがある。クマが隠れているとすれば、この中のはずだった。ここで東警察署の警視が斎藤にこう告げた。

「いま、警察官職務執行法に基づく発砲命令が出ました。あのハウスに当たらないように撃ってください」

 斎藤は藤井と共に、人の背丈ほどもある茂みの中に銃身を突っ込むようにして、分け入っていく。

「正直、気持ち悪いわなぁ。先が見えないところにクマが隠れているかもしれないわけだから」(斎藤)

 細心の注意を払って茂みの中にクマの痕跡を探す。あれだけの体重の動物が通り抜ければ、草が倒れているはずだ。だが、その痕跡がない。やがて茂みを通り抜けてしまった。

 そこで斎藤はクマが通ってきたという側溝から念入りに調べた。

「そうしたら足跡があった。ここから上ったんじゃなかろうか、と思って、そのあたりのモサ(茂み)を覗いたら、草が寝てるのさ」

 斎藤は倒れている草の跡を辿り始めた。今度は野生動物の調査を行うNPO法人「エンヴィジョン環境保全事務所」の早稲田宏一研究員と一緒だ。20メートルほど進んだところで、斎藤の足が止まる。倒れている草が急に無くなったのだ。

「コイツ、“止め足”使ったか?」

 斎藤の背筋がスッと冷えた。

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source : 文藝春秋 2022年3月号

genre : ニュース 社会 働き方