あのキューバ危機の時より世界は瀬戸際にある。
中西氏
「真実の瞬間」を迎えている
「われわれは今日、何を聞いているのか。ロケットの爆発や戦闘、航空機のとどろきだけではない。それは、『新しい鉄のカーテン』が閉ざされる音だ」
プーチン大統領による侵攻が始まった日、ウクライナのゼレンスキー大統領がビデオ演説でこう語りました。この日を境に、世界は掛け値なしに変わったと言っていいでしょう。
空爆で瓦礫の山と化した産科病院から担架で運び出される分娩中の妊婦、突然召集令状が届き、祖国防衛のために戦うことを決意した父親、涙にくれる妻と子。極寒の中、超満員の列車でポーランド国境の町プシェミスルに逃げてきた、やつれきった表情の幾万もの母親や幼い子供たち……。こうしたウクライナ国民の苦難が各国のメディアで連日報じられ、SNSを通じて世界中を駆け巡っている。ここまで世界がひとつになって反ロシア、反プーチンのうねりを巻き起こしているのには、目を見張るものがあります。まさに「世界秩序の正念場」という意識があるからでしょう。
普段、私たちはそれぞれの利害関係や政治的立場から、専ら自らの利益を優先したり、あれこれ主張を戦わせたり、ときに斜に構え気の利いた意見を提示して社会や政治を論じたりしています。これも人間と社会の営みとして大事なことではありますが、私たちの住む世界が「実存」に関わる問題を突き付けられているいま、それらを後回しにしてでも、今はあえて「至極真っ当」なことを一途に訴えなければならない局面が訪れているのではないでしょうか。
人類にとっての歴史の分岐点、いわば「真実の瞬間」を迎えているのです。
同時に私たちは、冷戦終結から今日まで維持してきた国際秩序が、まさに音を立てて崩れ落ちる瀬戸際に立たされていることを冷静に見つめ、いったい何が間違っていたのか、そして今後のあるべき世界秩序の方向を考える「よすが」にしなければなりません。
50年以上にわたって国際政治を観察し戦争と平和の問題を考えてきた私から見て、今回の白昼堂々たるプーチンの侵略戦争は、主権国家の不可侵性という国際法の根幹を揺るがす、現代史上、前代未聞の出来事と言わざるを得ません。これに類する例を探すとしたら、第2次世界大戦勃発のきっかけとなった、1939年9月1日のヒトラーによるポーランド侵攻ぐらいのものでしょう。病院や学校といった施設や「人道回廊」への爆撃など、ロシア軍による民間人に対する意図的な殺戮行為は、ナチスドイツの戦争犯罪にも匹敵する暴挙です。
プーチン大統領
国際社会の無力さ
3月に入って、ゼレンスキーは欧米諸国や日本の議会でオンライン演説を行い、各国の国会議員たちに協力を訴えてきました。
なかでも印象的だったのは、最初に行われたイギリス議会での演説です。カーキ色のTシャツを着た彼はそこで「私たちは諦めない。海で戦い、空で戦い、どれだけ犠牲を出そうとも、われわれの領土を守る。われわれは、森の中、平原、海岸、都市や村、通り、丘で戦い続けるだろう」と力強く語りました。この文句は、チャーチルがナチスドイツに対する抵抗の決意を世界に示した1940年の名演説になぞらえたもの。たった一国で強大なナチスドイツと戦った歴史を知る全てのイギリス人の琴線に触れる感動的なスピーチだったことは間違いありません。
ただし、ゼレンスキーが演説に別の意味を込めたことも見落としてはいけません。チャーチル演説が、当時は戦争を傍観していたアメリカのルーズベルト大統領に1日も早い参戦を求める趣旨でもあったように、ゼレンスキーも「われわれはたった一国で大国ロシアの独裁者プーチンと戦っているのに、NATOやアメリカはいったい何をしているんだ。自由のための戦いを座視するのか」と迫っているのです。
ウクライナ侵攻は、国際社会の無力さをありありと露呈させました。ウクライナはNATOやEUへの加盟を申請し続けましたが、加盟国の間では慎重論がいまだ根強く、実現は見通せません。NATOに要請したウクライナ上空の「飛行禁止区域」の設定も、ロシアとの正面衝突の懸念からNATOはあきらかに躊躇している。ゼレンスキーとウクライナ国民は、孤立を深めているようにも見えます。
何ゆえ国際社会は動けないのでしょうか。何より欧米諸国を動けなくしている「壁」は、ロシアが世界一多くの核弾頭を保有する核大国だということです。第2次世界大戦以来、今回ほど核兵器の占める意義が高まった国家同士の紛争や衝突はありません。核保有国が、核の威嚇を伴う強い決意で非保有国への侵略戦争を始めると、誰も止められない可能性が出てきたということです。
キューバ危機を想起する人がいるかもしれませんが、核戦争のリスクは1962年のあの危機よりはるかに高いと言わざるを得ない。キューバにミサイル基地を設置しようとしたフルシチョフ書記長に対し、ケネディ大統領が強硬に抗議し、核戦争寸前までエスカレートしたと言われますが、今のウクライナ情勢と異なり、当時、米ソそしてキューバも、関係国はいずれも交戦状態にありませんでした。
核エスカレーションの梯子
ゼレンスキーはアメリカ議会での演説で「真珠湾攻撃」や「9・11」に言及し、ドイツでは「ベルリンの壁」を引き合いに出して、欧米を盛んに煽っています。しかし、この呼びかけに各国が呼応することは簡単には許されない。「第三次世界大戦」の危機を招くことが明らかだからです。
ポーランドとウクライナの国境付近、あるいはルーマニアやバルト三国といったNATO勢力圏の前線で、NATO軍とロシア軍の偶発的衝突が起き、それが第三次世界大戦に発展する可能性も排除できません。あるいは、もしロシアが化学兵器を使用すれば、NATOの反応は当然、エスカレートせざるを得ません。そこから核の応酬に発展しても全く不思議ではないのです。
また、戦場で敗北を重ねているロシア軍の現地司令官が、戦術核に手をかける可能性はかつてなく高まっており、さらに、ペスコフ大統領府報道官は「ロシアが国家存亡の危機に直面したら、核を(先制)使用する」と繰り返しています。それゆえ、クレムリンはいつ何時、ウクライナ軍への情報や兵站の支援中枢になっているNATO軍の基地に対して攻撃命令を出してもおかしくありません。そしてそれは直ちに、米ロ軍の全面交戦、すなわち第三次世界大戦に繋がるでしょう。
だからこそ、アメリカは慎重にならざるを得ない。今回、バイデン政権がウクライナへの米軍派遣などの軍事的関与をいち早く否定したせいで、プーチンにこのような行動を許したと指摘する向きもありますが、それは誤った認識だと思います。
アメリカが態度を曖昧なままにしていたら、時間が経つにつれて両国の疑念は深まり、「核エスカレーションの梯子」をのぼり続け、逆に早期に戦略核のレベルに行きついてしまう。このほうがずっと怖いのです。軍事非介入をロシアに明示しておいた方が、全面核戦争の可能性を低く抑えられる。バイデンにはそうした計算があったのでしょう。
プーチンの「終わりの始まり」
バイデンが3月1日の一般教書演説で語った次の発言は、的を射た指摘だったと思います。
「将来この時代の歴史を振り返る時がくれば、ウクライナに対するプーチンの戦争がロシアを弱体化させ、世界を強くしたと書かれるだろう」
これは、あくまで国際社会におけるアメリカの立場を踏まえた政治家の呼びかけではありますが、たしかにウクライナでの戦争はプーチンの「終わりの始まり」の可能性を孕んでいる。特に、戦争の泥沼化はプーチン体制の決定的な弱体化と表裏一体なのです。
その鍵を握るのが、オリガルヒの存在です。オリガルヒとは、プーチンが国営企業のトップなどに送り込んだ大富豪たちのこと。プーチンのKGB時代の同僚など治安・情報機関出身者が多く、プーチン政権の資金面を支え、政治基盤にも影響力を持っています。
一般教書演説でバイデンは、強い口調で「腐敗したオリガルヒはロシア国民の富を奪っている。徹底的に追い詰める」とも語り、これを聞いたアメリカの議員たちは総立ちになって拍手喝采しました。
アメリカは、オリガルヒの資産の動きをすべて把握しています。「財務安全保障」の情報網によって、財務省がドルに関わった彼らの資産をすべて追いかけている。CIAもイギリスの対外情報部門MI6との緊密な連携のもと、10年以上前からオリガルヒを重点監視対象としてきました。「プーチンの首をすげ替えなければ営々と蓄えた資産を失う」となると、彼らは必死になるはずです。
政権内部の足元からも崩れの兆候が徐々に出てきています。アナトリー・チュバイス大統領特別代表(元副首相)はこの戦争に抗議して海外に脱出しました。ショイグ国防相が何日も姿を見せなくなったとも報じられています。さらにプーチンは、連邦保安庁(FSB)の対外情報部門トップに自宅軟禁処分を下すなど、意に沿わない政権幹部への内部粛清をすでに始めているようです。
面従腹背だったプーチンに反感を持つ政権幹部や側近、軍の幹部が「宮廷革命」を企て、プーチンを追い落とす。ロシア史を見れば、これは決して夢想的な観測とは言えないはずです。
いまのウクライナ情勢を見て、最も狼狽しているのがほかならぬ中国の習近平国家主席でしょう。ポーカーフェイスで巧みに隠していますが、その狼狽は、ウクライナ侵攻前後の中国を見比べればよく分かります。
騙された習近平
2月4日、北京オリンピック開幕と同じ日に開かれた中ロ首脳会談で、中ロは「準同盟国宣言」ともとれるほどの蜜月ぶりを強調し、国際社会を事前にけん制しました。
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source : 文藝春秋 2022年5月号