大河内傳次郎のニヒリズム——。伊藤大輔『忠次旅日記』(1927)
ヤクザ者とはいつどのように生まれたのか
日本映画最初のヤクザ映画(当時は侠客物)とは何か? それは、“目玉の松ちゃん”の愛称で親しまれた日本映画最初のスター、尾上松之助が主演した『侠客 祐天吉松』(1910年、横田商会製作)と思われる。講談で有名な、背中に彫物を背負った元掏摸が流転していく物語だ。
「この作品はフィルムも残っていませんし、監督名すら分かりません。ただ『都新聞』(のちの『東京新聞』)に作品名と幕数と場面数だけが載っています」と京都文化博物館学芸員で尾上松之助研究者の大矢敦子は語る。松之助は生涯1000本もの映画に出演し、大石内蔵助、水戸黄門などの歴史的偉人とともに、勢力富五郎、会津小鉄、清水次郎長、国定忠治といった江戸後期に実在した博徒、侠客も演じた。初期の松之助の活動写真(映画)はインテリ層には見向きもされず、熱烈に支持した客層は子供や丁稚や労働者(京都で言えば西陣の職工)たちだったが、「男性的魅力を打ち出す侠客物には、女性観客も多かったようです」と大矢は語る。
今回は、もっとも著名な侠客、国定忠治が史実から講談、浪曲、映画へといかに羽ばたいたかを辿ろうと思うのだが、その前に、そもそもヤクザ者とはいつどのように生まれたのかを探っておきたい。
国文学者の松田修は、ヤクザの語源は巷間よく語られる3枚ガルタの花札で最悪の手札「八・九・三」ではなく、古代日本語で「生理的・心理的異和」を表わす「やくさむ」(悩む)に由来すると言う(『映像の無頼たち―松田修映画論集』劇書房)。そして松田は、共同体から追放された「荒ぶる神」素戔嗚尊こそが最初のヤクザであると主張する。江戸時代の風俗百科事典の『嬉遊笑覧』は、室町時代に大酒をくらって暴れ回った「カブキ者」がヤクザ者の起源だと説く。
素戔嗚尊
ヤクザがなぜ支持されたか
『国定忠治の時代——読み書きと剣術』(平凡社)や『国定忠治』、『清水次郎長——幕末維新と博徒の世界』(ともに岩波新書)などの著作があり、アウトローもふくめた稗史研究の第一人者、高橋敏国立歴史民俗博物館名誉教授はこう語る。
高橋 ヤクザの起源には諸説ありますが、博徒や侠客の嚆矢は間違いなく江戸末期、幕藩体制社会から排除された国定忠治や勢力富五郎など農民出身の「無宿者」だと思います。天保年間(1830~44年)には天変地異が多く、大飢饉があって、生まれ故郷を離れざるをえない多くの無宿者が生まれました。忠治のように村役人の家に長男として生まれながら、17歳で人を殺し、家を飛び出した者もいました。
こうした無宿者は街道の宿場、海運の港、舟運の河岸といった経済が発達した結節点に流れこみ、御禁制の賭場を開き、祭礼のときに催される地芝居や相撲興行のかすりを取って生きていきます。彼らが一宿一飯の恩義など独自の不文律をつくり、博徒たちの縄張りができたのも天保の頃でした。
天保のあとの嘉永六(1853)年、ペリー率いる軍艦4隻がやってきて幕府に開国を迫り、幕藩体制が大きく揺らぎます。幕末にかけて幕府の力がしだいに衰えてゆくにつれ、上州の忠治、下総の勢力、武州の石原村無宿幸次郎らが各地で大暴れして幕府を手こずらせ、アウトローたちが歴史の表舞台に現れて跋扈する時代がやってくる。
忠治は目的のためには手段を選ばない冷徹な男でした。24歳のとき、目の前に立ちはだかる大物博徒の島村伊三郎を村はずれで闇討ちして殺害。縄張りを奪って金城湯池の一大盗区を形成していきます。縄張りを守るために血で血を洗う凄惨極まる激闘を繰り返し、博徒を取り締まるために幕府がつくった「関東取締出役」の道案内(二足の草鞋)に任命されたばかりの御室勘助を、甥にあたる子分板割浅太郎に謀殺させる。ここから忠治は関東取締出役の最重要指名手配になり、逃亡生活が始まるんです。
そんな凶悪非道な国定忠治を、なぜ民衆は支持したのだろうか?
高橋 忠治が天保の飢饉にあえぐ民衆を救済したからです。飢えに苦しむ貧民に米やお金を分け与え、博奕の上がりを使って溜池の土砂のかき出し工事を行ない、農耕地の水源を確保しました。本来なら為政者がやらなければならない「仁政」を博徒である忠治が身銭を切ってやり、民衆を見殺しにした支配領主に死を覚悟で立ち向かった。民衆はそんな忠治を「義民」だと崇めたんです。指名手配になった忠治は日光の円蔵など右腕左腕だった股肱の子分を次々と失い、脳出血に見舞われ中風に苦しみますが、民衆はそんな忠治を最後まで匿い続けます。
しかし忠治は1850(嘉永3)年に捕縛され、殺人と関所破りの罪で公開処刑される。そんな忠治を民衆はどう見たか?
高橋 忠治が磔刑にされるまでの様子が『藤岡屋日記』(江戸末期の市井の事件や噂を克明に書き留めた須藤由蔵による日記)などに記されています。それによれば、刑場に護送される忠治は菊池徳(忠治の愛人)が特別に誂えた豪勢な唐丸籠に乗って、衣裳は白縮緬の下着に白綸子の上着に丸くけ帯。首には大きな数珠をかけ、三枚重ねの緋縮緬の座布団の上に悠々と座り、見物の群衆に向かって銭を撒いたというから、さながら歌舞伎役者の顔見世興行のようでした。
12月21日、雪が降りしきる刑場には1500人の群衆が詰めかけ、忠治は一杯の酒を吞み、諸役人に礼を言って磔になる。絶命するまで14回も槍で突かれながら表情ひとつ変えず、見事な最期を遂げた。忠治の意識のなかにあったのは、歌舞伎や『水滸伝』の英雄豪傑たちだったと思いますね。
『水滸伝』は中国の四大奇書のひとつ。世間から弾き出された108人の豪傑たちが梁山泊に集結し、腐敗した政府に反旗を翻して戦いを挑む物語は、日本の博徒や侠客の「任侠精神」に大きな影響を与えた。忠治が処刑された嘉永年間には、『水滸伝』の翻案である滝沢馬琴の読本『南総里見八犬伝』(1814~42年)や歌川国芳の錦絵「通俗水滸伝」シリーズが庶民の間で流行し、江戸の髪結床ののれんが国芳の水滸伝のデザイン一色に染まるほどだった。
忠治は『水滸伝』の英雄豪傑や歌舞伎の幡随院長兵衛に自らを擬え、死後、芸能や伝承として生きようとした。東映ヤクザ映画にわが名を残そうとした昭和の暴力団組長たちの先駆といえるのではないか。
高橋 その通りでしょう。忠治とお徳は刑場を劇場に見立て、忠治の死を一幕の芝居仕立てに仕組み、一般大衆を観客にして男伊達の最期を見事に演じてみせました。それによって幕府が「見せしめ」のために行なった処刑が、逆に民衆に感動を与えてしまいます。しかも、三日間晒したあと廃棄される予定だった忠治の遺骸の首や手足が忽然と消える。菊池徳が忠治ゆかりの盗区の若者を使って盗み出し、国定村の菩提寺に持ち帰り葬ったのだと思われます。
一方、忠治の最期の様子は、彼の生涯を門付けしながら語る「忠治くどき」や「ちょんがれ」によって口伝てに村から村へと伝わっていきます。そして、羽倉外記(簡堂)という忠治を取り締まる側のお役人だった人が『劇盗忠二小伝』(『赤城録』)を書き残し、それが種本になって、忠治の「実録体小説」が広まっていくんですね。そして1854年に初代宝井琴凌が忠治の事跡を実地に踏査し、忠治の生涯を講談に仕立てます。1862年には、3代歌川豊国の「近世水滸伝」のなかで忠治は浮世絵として描かれました。これは当時、庶民に人気があった博徒や侠客たちを『水滸伝』の豪傑のように描いたシリーズで、忠治は「組定重次」と変名され、当時の人気役者、八代目市川團十郎の似顔になっています。重罪人の忠治を描いたことが御上に見つかるとお咎めがあるので、忠治を役者絵のように仕立て、豊国は厳しい言論統制の網をかいくぐったんですね。当時、浮世絵はそう高いものじゃなくて、漢字に総ルビをふってあったから、仮名しか読めない庶民の間にも忠治の絵はまたたく間に拡がったんです。
歌川豊国の「組定重次」
貴いおろかもの
民衆の権力に対する不満や「悪」への憧れが、国定忠治をヒーローにしたのだ。改名され変貌された忠治像は、民衆の思慕をなおさら掻き立てたのではないか。
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source : 文藝春秋 2022年5月号