創業240年。日本唯一のメガ・ファーマに息づくDNA
高度な創薬事業に特化
新型コロナウイルスの感染拡大の抑制が世界中で人類共通の喫緊課題となっていた2020年、待ち望まれたのがワクチンの開発、そして供給であった。ひときわ存在感を見せた日本企業が武田薬品工業である。
米ファイザーのワクチンが2021年2月に日本で最初の認可を受けると、翌3月、米モデルナのワクチンの国内での製造販売業者として武田が厚生労働省に承認を申請し、5月に認可された。また、米ジョンソン・エンド・ジョンソンのワクチン生産施設が充分でないと明らかになると、武田がデング熱ワクチン製造のためにドイツに確保した工場の製造施設を提供すると名乗り出た。
米バイオテクノロジー企業ノババックスと2020年8月に提携に合意していた武田は、21年12月、組み換えたんぱくワクチンの製造販売を厚労省に申請し、ことし4月に承認された。このノババックス製ワクチンは、m(メッセンジャー)RNAと呼ばれる先行のワクチンが零下15℃以下などの冷凍保存を要するのと異なり、2℃から8℃で通常の冷蔵保存が可能となる。
武田は、主力のひとつ山口・光市にある工場でこの新たなコロナワクチンを製造していく。年間2億5000万回接種分以上の製造能力を有し、日本政府と1億5000万回分の購入について契約を結んでいる。
世界トップクラスの売上高を誇る製薬、バイオ企業をメガ・ファーマと呼ぶ。武田は、欧米勢らと伍すように米国などに進出する一方、海外企業の買収も進めながら日本企業で初めてメガ・ファーマにのし上がった。ドラッグストアなどで市販されるビタミン剤「アリナミン」、風邪薬「ベンザブロック」などの一般用医薬品部門を切り離し、希少疾患、がん、消化器疾患などの患者らを救うための高度な創薬事業に特化して経営資源を注いできた。
いまでは世界約80の国と地域で事業を展開し、完全なるグローバルカンパニーとなりつつある。約5万人の従業員を擁しながら、取締役16人のうち社内取締役はわずか4人で構成されている。そのうち、ただ1人の日本人で、代表取締役日本管掌の岩﨑真人は、このパンデミックはそう簡単には収束しないであろうと当初から見ていた。政府の緊急事態宣言が発せられるよりも早く、全社を挙げて動き始めた。
「自社で研究開発に着手すべきだという意見もありましたが、スピードがなによりも大事だという認識は社内で共有できていた。海外からワクチンをすぐに日本に持ってくることができるのなら、いまは国民にとってベストな方法だろうと、モデルナ社と話し合うと同時に、国内で製造できることも大切だと考えて、ノババックス社とも協議を始めました。ドイツの工場をお貸しすることにしたのも、それが世の中のため、社会のためになると確信したからです」
2018年に竣工した東京・日本橋本町に聳え立つ24階建ての武田グローバル本社。窓からは東京都心の街々がぐるりと一望できる。
「われわれの事業展開は、これからも、よりグローバルに広がっていくでしょう。それでも、タケダイズムを据えて、日本を本拠地とすることは決して変わりません。おそらく、今後もそれは変わらないでしょう」
岩﨑真人代表取締役
タケダイズムと近江商人
フランス出身で、製薬大手の英グラクソ・スミスクラインで長くワクチン事業を統括し、2014年から武田の代表取締役社長を務め、15年にCEO(最高経営責任者)に就いたクリストフ・ウェバーも、記者会見などで、「本社が日本から離れることはない」、「武田の指針こそ、私たちの価値観になっている」と断言してきた。指針となるタケダイズムは、端的には「誠実:公正・正直・不屈」と定義づけられてきた。まず誠実たらんということである。
岩﨑は、「私の理解では近江商人の教えですね」と興味深くつづけた。
「近江商人から広まったという『売り手よし、買い手よし、世間よし』の『三方よし』の理念、これがタケダイズムの大本になっています」
実際、江戸時代から屈指の薬種問屋街として全国に知られた大阪・道修町を発祥とする武田は、近江商人の影響を色濃く受けながら240年もの歴史を刻んできた。
現在の奈良県に生まれた初代武田長兵衞(1750―1821)は、幼名を竹田長三郎といった。14歳のとき、道修町で薬種商を営む近江屋喜助の店に丁稚奉公に出る。刻苦勉励で、近江商人の信条を教え込まれながら番頭として頭角を現した。数え32歳のとき、和漢薬を問屋から買いつけ、小分けして地方の薬商や医師に販売する小さな商店をのれん分けによって道修町に開いた。
長兵衞が独立した1781(天明元)年を、武田の創業年と定めて今日に至る。患う者の身を第一に考えて誠実に良薬の商いに取り組むことを旨とし、信用を広げていった。
長兵衞の名は代々の武田の家督を受け継ぐ者が襲名し、事業規模を拡大させていく。創業の地には、現在も歴史的建造物として評価が高い武田道修町ビルが残り、医薬学の古い蔵書を保管、公開することを目的とする資料館「杏雨書屋」が武田科学振興財団によって運営されている。
試みに、道修町周辺を歩いてみた。薬の神様(薬祖神)として祀られる少彦名神社があり、国内の薬品関連会社の名が寄進主としてずらりと掲げられている。町内には、塩野義や住友ファーマ、田辺三菱といった大手同業が本社を構えるほか、支店や営業所を含めると中小・零細までの薬品メーカーや販売会社が集まる。
第4代武田長兵衞の時代は幕末の混乱期に直面することとなった。明治の時代に入ると、それまでの和漢薬と併せ、洋薬の取り扱いにも乗り出した。1871(明治4)年のことと伝わる。そして、将来を見越し、洋薬の輸入販売専業に転換していった。堅実を重んじつつ、進取の気性に富む和魂洋才というべき精神は、この時代から武田家に育まれていったのかもしれない。1895年には製薬事業を開始している。
武田薬品工業の沿革
1781年 初代武田長兵衞、大阪・道修町で薬種仲買商を始める
1871年 4代目長兵衞、洋薬の輸入を始める
1895年 大阪に専属工場を設立。製薬事業を開始
1914年 新薬開発や医薬品の研究を行う研究部を設立
1915年 大阪・十三に武田製薬所を設立
1925年 5代目長兵衞、株式会社武田長兵衞商店設立
1940年 社是「規」を制定
1943年 社名を武田薬品工業とする
1946年 山口県光市に工場を開設
1949年 東京・大阪証券取引所に上場
1954年 アリナミン発売
1962年 台湾での製造・販社設立を皮切りにアジア各国へ進出
1978年 フランスに販売合弁会社を設立して、ヨーロッパ進出
1985年 アメリカに合弁でTAP社設立
1993年 武田國男、社長に就任(2003年まで)
2005年 初の海外企業買収(シリックス社)
2015年 クリストフ・ウェバー、CEOへ就任
2019年 シャイアー社を買収
クリストフ・ウェバーCEO
グローバル化のDNA
先人の決断を振り返りながら、日本管掌の岩﨑は次のように話した。
「武田はいつからグローバル化に舵を切ったのですかという質問をときどき受けますが、私どもの会社の元々のDNAは、初めから海外を視野に入れていたと思うんです。そして、洋薬を輸入して売るということにとどまらず、同じ品質の薬を自らつくろうと研究開発の施設を整えるのも早かった。私はこの会社に37年以上おりますが、タケダイズムという考え方は創業まもないころから変わらずにずっとあって、グローバル化をすればするほどそれが求心力になっていると強く実感します」
第5代長兵衞がより事業を飛躍させる。薬品試験部や研究部を開設して、医薬品の国産化への道筋を見いだしていく。1915(大正4)年、大阪の十三に4200坪以上の広大な用地を買収し、武田製薬所を設立する。用地の拡幅や施設の新増設を重ねてゆき、研究と製造の基幹となる大阪工場として現在に至っている。「公に向ひ国に奉ずるを第一義とすること」という一文から始まる5カ条の社是「規」も制定した。明文化された近代タケダイズムの最初の原型といっていいであろう。組織を整理統合し、1943(昭和18)年に武田薬品工業として正式に社名を定め、長男の鋭太郎に第6代長兵衞の名を譲って隠居した。
戦後の武田は、脚気の治療薬であるビタミンB1を配合した商品化に成功し、「アリナミン糖衣錠」を売り出して大衆薬メーカーとしても躍り出る。みかん果汁入りのジュースにビタミンCをプラスした「プラッシー」は、子どもたちの人気を集めた。
第6代長兵衞の三男・武田國男が甲南大学を卒業して武田に入社するのは、アリナミンやプラッシーが全盛期を迎え始める1962年のことである。祖父や父、学業成績のいい長兄や次兄に劣等感を抱き、「落ちこぼれ」と自称していた。2004年11月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」を、単行本にまとめたのちに文庫化された『落ちこぼれタケダを変える』(日本経済新聞出版社)で詳述している。
國男は経理部に配属されたものの、仕事に身が入らず、暇を見つけては麻雀やゴルフに興じていた。社長である父の命により、20代の半ばから終わりにフランスやイギリスへ留学し、得難い海外体験となる。國男が帰国した1969年ごろの武田は、ビタミン強化米「ポリライス」、さらに業界の王者「味の素」と人気を張り合った調味料「いの一番」なども販売が好調で、総合食品会社への転換を図ろうとしていた。
1974年の秋、31年に及ぶ在任期間に区切りをつけ、父の第6代長兵衞が社長を退任し、会長に就いた。まだ40歳と若い長男で副社長の彰郎に代わるワンポイント・リリーフのような格好で、武田家以外で初めてとなる社長に、同じく副社長の小西新兵衛が就任する。
1980年2月、単に武田家の不幸にはとどまらない悲運が襲う。次の後継者たる長兄で副社長の彰郎が心臓麻痺により、46歳の若さで急逝するのである。同じ年の9月には、第6代長兵衞こと父の鋭太郎が長男を追うように75歳で世を去る。大阪大学出身の次兄の誠郎は、武田の事業には携わらず、学究の道へと進んでいた。武田に残る國男は不惑の年を迎えていた。
東京・日本橋の本社
「ぬるま湯」体質からの脱却
以後、武田家以外の生え抜き組から社長が3代つづくことになる。
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