ミズノ「夏の甲子園」を生んだ野球愛

ニッポンの100年企業 第8回

ビジネス 企業 スポーツ
スポーツを軸に健康寿命の延長にも挑む。

平和でなければ成り立たない

 一面のガラス窓から大阪湾を見下ろす大阪・住之江のミズノ大阪本社ビル上層階の応接室で、社長の水野明人に話を聞き始めてまもなく、軽妙な関西弁の語り口も相まって、その場にいる人たちの表情を和らげずにおかないパーソナリティーが伝わってきた。会話に笑いが絶えない。

 新型コロナの感染拡大が社会問題となって以後、スイムウエアの生地で作ったマウスカバーが大ヒットしたことを挙げ、「まさか、あんなに売れるとは。たくさんの人に喜ばれましたけど、うちが助かりましたわ」と笑った。経営者として会社のあるべき姿について語ろうとするとき、むろん面差しは静かである。

「ほとんどの会社が平和的なことを仕事にしていると思いますが――」

 世が混迷と悲しみのさなかにあることを踏まえて、そう切り出した。

「スポーツというものは平和でなければ成り立たないものです。平和であるからこそスポーツ用品も売れる。世の中の役に立って、少しでも社会貢献できるものを作っていこうという向上心、チャレンジ精神を社員たちと持っていたい。利益もそこそこ上げて税金は納めないかんけれども、儲け過ぎてもあきません。もちろん赤字にはなりたくないけどね」

 笑いつつ、自社の歴史を振り返る。

「私は入社して40年あまりですが、あえてターニングポイントのようなものを挙げるとするなら、太平洋戦争でしょうか。経営が立ち行かなくなった会社も少なくなかったようです。戦争が4年くらいつづいている間、スポーツなんておよそ必要とされていなかったはずです。でも、会社にいた人たちがなんとか生き延びようと、臨機応変にというのでしょうか、工夫して、ニーズに合うものを作って乗り越えた。その当時の人は偉かったと思いますね」

 戦前、戦中は、軍需産業に協力することで経営の屋台骨を支えた時期もあった。そのことを注記しつつ、次のようにもいえるであろう。平和な時代も、そうでないときも、ミズノはスポーツとともに歴史を重ね、堅実経営を旨としてきた。

 創業者の水野利八(1884‐1970)は、幼名を仁吉といい、現在の岐阜県大垣市で、旧大垣藩出入りの大工の棟梁の次男に生まれた。

 日ごろから「男は無闇にしゃべるな」、「何をしてもいい。日本一といわれるような人になれ」と諭していた父の利八は、仁吉がまだ8歳であった1893(明治26)年、45歳で病没する。仁吉は、成績優秀だったが、高等小学校を1年で中退し、母の親類筋である大阪・道修町《どしょうまち》にある薬種問屋へ丁稚奉公に出る。店の敷居を初めてまたいだその日、たまたま見かけた1人の客に気後れせずに「何かご用ですか」と声をかけたことから注文を係りの者に取り次ぐことになった。わずか11歳のときのことである。店主を「来た日からもう商いをしよった」と驚かせた。商才と誠実な人柄が買われ、翌年、大阪南区にある薬屋に13歳にして番頭格として奉公する。

 京都の織物問屋へ移った1年後には17歳で番頭に出世している。

 出商いに行った帰り道、賀茂川べりを歩いていて、京都市内の吉田にある第三高等学校(旧制。現在の京都大学などの前身)のグラウンドの近くを通りがかった。そこで三高と外国人クラブの野球の試合が行われていたことが仁吉の人生を大きく変えることになる。欧米に憧れていた仁吉は、「外人と知り合いになれるかもしれない」とほんの軽い気持ちで野球見物をしたところ、そのゲームの面白さにすっかり魅了される。

ミズノの沿革
1906年 水野利八、弟・利三と大阪北区で「水野兄弟商会」を創業
1907年 運動用ウエアの製造開始
1912年 東京支店を神田駿河台に開設
1913年 野球グラブ、ボールの製造開始夏の全国野球大会(甲子園)の前身となる関西学生連合野球大会を大阪・豊中で開催
1927年 国産スキー板を発売大阪・淀屋橋に本社屋完成
1928年 陸上スパイク生産開始
1933年 初の日本製ゴルフクラブ発売
1936年 グライダー製造開始
1942年 「美津濃株式会社」に社名変更
1943年 岐阜県に養老工場開設
1947年 テニスラケット製造開始
1957年 圧縮バットを発明、特許獲得
1970年 創業者・利八 死去
1982年 世界で初めてカーボンをヘッドに採用したゴルフクラブを発売
1987年 社名表記を「ミズノ」に統一
1992年 大阪市住之江区に新大阪本社ビルが竣工
2006年 会長に水野正人、社長に水野明人が就任
2012年 スポーツ器具メーカー「Senoh」を子会社化
2020年 水着素材で作ったマウスカバー発売

商都大阪で起業

 日露戦争に従軍して除隊後、1906(明治39)年4月1日、ゆくゆくは野球用品の商売を手がけることも目的に、仁吉は弟の利三とともに、商都大阪の北区芝田町に資本金150円で水野兄弟商会を設立開業する。この日がミズノの創立記念日となっており、現在、117年目に入ったところである。水野兄弟商会は、靴下やハンカチ、タオル、シャツのほか、野球のボールなども販売した。やがて、故郷の美濃を念頭に、美津濃と屋号を改める。

 創業の翌年、仁吉は運動服のオーダーメイドに将来性を見いだし、縫製職人と専属契約を結んで製造販売に乗り出す。これが日本のスポーツウエアの嚆矢こうしとされる。さらに、運動服の既製品の製造販売も手がけ、業績はどんどん伸びていった。スポーツマンたちの間では「美津濃に行けば流行の運動服がそろっている」と評判をとるようになっていく。

 大の野球ファンであり、アイデアマンでもあった仁吉は、自社製品の販売促進の宣伝活動も兼ねて実業団野球大会の主催を思いつく。行動は素早く、1911年から開催するのである。明治の末の時代のことであり、詳細な記録は残されていない。個人商店の主催によるスポーツ大会は少なくとも関西では初めてであり、以後、春秋の年2回、60回近くつづいたことはたしからしい。

 美津濃の事業は順調で、明治の終わりの1912年、弟の利三が発案し、店員一人を連れて自ら上京して東京支店を開設する。東京支店がほどなく移転し、都心の一等地、駿河台下に店舗を構えることになる。靖国通りに面した神田小川町で、御茶ノ水、あるいは神田神保町とも称され、ミズノの名を広く知らしめる旗艦店の一つとなって現在に至る。

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創業者・水野利八

甲子園の前身となる大会を主催

 仁吉の構想は事業欲を超えて膨らむ一方であり、実業団大会につづき、ついには学生野球大会の開催のために動きだすのである。もとより、仁吉が魅せられたのは三高野球部の試合であり、さらに中学校(旧制。現在の高校)の生徒たちは学生服や運動靴、靴下などの、いわば上得意客でもあった。学生野球の試合に弟の利三とともに熱心に足を運んだ仁吉は、宣伝も兼ねて自社製品の目立つ赤いシャツを着込んでスタンドから大声を張り上げて、小柄ながら、「あれが運動服を売っとる美津濃のおっさんやで」と有名になっていた。

 仁吉は、明治天皇の崩御によって中止されていた中学校の学生野球大会を、美津濃の主催で1913年8月、第1回関西学生聯合野球大会として、現在の阪急電鉄系列の真新しい豊中グラウンドで開くのである。

 1915年、仁吉は、父・利八の名を襲名し、生涯を通してゆく。同じ年、2年つづけて開催してきた8月の関西学生野球大会について、朝日新聞社が全国規模に広げて自社が主催することを打診してきた。第2代水野利八は、あっさり「けっこうです、やってもろたら」と主催権を手放すのである。若人たちが投げて、打って、走る。観る者が割れんばかりの声援を送って胸を躍らせる。そのようなアマチュアの夏の球宴が全国に広がって継続されていくのなら権利も名誉もいらぬと打算なく応じた。「夏の甲子園の生みの親」と静かに語り伝えられていくことになる。

 利八は、さらに春の中学生(旧制)野球大会の開催にも奔走する。これが現在の春の選抜高校野球大会に発展する。要するに、夏も春も、甲子園の全国高校野球大会の種をまき、土台を育んだのは、ミズノの創業者、水野利八だったのである。

 利八は、アマチュア野球の公平な普及についても考えを巡らせていた。もともとアメリカから伝わった野球は、ルールや装具、グラウンドの規格まで、本家のありようをおおむねそのまま踏襲し、導入していた。しかしながら、消耗の著しいボールひとつとっても、物資の乏しい時代にあって、各地各校で、大きさや材質が不統一のままであった。つぎはぎだらけといった代物も多く見られた。

 欧米人より小さい日本人の手になじみ、大きすぎず、重すぎず、適切な材質によるボールの普及を提唱する。もとより、硬式ボールの材料となるコルクや毛糸、ゴム、皮革などの品質が舶来品のそれに比べるべくもなかった。利八は、材質だけでなく、打撃による反発力、飛距離、またグラウンド上でねるバウンド量なども重視し、外形の規格統一のみにとらわれなかった。

ボールだけは会長の仕事に

 肝心の社業にも、水野利八は商才を発揮していそしんだ。

 美津濃商店の業績は伸び、従業員も増えていたが、経営者としての利八は浮かれない。飲食を伴う席での営業活動を社員に禁じ、節約と貯蓄を励行せよと説いた。自ら下戸であり、酒宴とはおよそ無縁であった。自社製品の値引き販売を戒めるとともに、不当な価格つり上げにも厳しく目を光らせた。戦中戦後にあっても、闇物資を商うことは「断固、許しません」と厳に禁じた。現社長の水野明人は、「祖父は従業員たちに『利益の利より道理の理』と繰り返していたそうです」と話す。かの松下幸之助が「私の経営の師匠は水野利八さんです」と語ったと伝わる。

photo1_水野明人社長
 
水野明人社長

 水野利八は、「いつか100尺(約30メートル)のビルを建てる」と目標を立てていた。1927(昭和2)年、商いの町、大阪淀屋橋に、その目標を果たす。しかし、慢心を戒めるように、あえて99尺の高さにとどめた。地元の再開発事業に伴って2021年6月に閉店するまで、淀屋橋店として親しまれた。「高品質、低価格で販売する」と断言しながら、ゴルフや登山、スキー、水泳などの分野へも業容を広げていった。

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source : 文藝春秋 2022年8月号

genre : ビジネス 企業 スポーツ