いかに漱石でもこのような想いは、親しい仲の鈴木三重吉にだけ書いている。
「死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやってみたい。それでないと何だか、難をすてて易につき、劇を厭ふて閑に走る、所謂腰抜文学者の様な気がしてならん」
これにはおおいに共感したので書き写して仕事場の壁に張りつけたのだが、漱石先生ちょっと大ゲサでは、とは思ったのだった。
しかし、大久保利通について少しばかり書いた今、大ゲサとは思わなくなっている。それどころか、あの時代に生きた日本人にとっての明治維新とは、遠い過去の話ではなくてつい昨日の出来事ではなかったか、とまで思い始めている。
1877年2月――西南の役始まる。8月、大久保の肝入りの結果でもある、日本初の内国勧業博覧会(つまりエクスポ)開催。9月24日、西郷隆盛の死をもって、不平士族たちによる反乱終結。
1878年1月末――これまた大久保が熱心に進めていた駒場農学校(東京大学農学部の前身)開校。3月、安積疎水事業を着工させたことで、インフラ整備も始めていた。
しかし5月14日、閣議に向う途路、旧士族の一群に襲われて殺されてしまう。そしてその4カ月後に、凶行現場にほど近い東京の都心に、日本最初の公立中学校が開校されるのである。
戦前までの名は府立一中、戦後からの名は都立日比谷高校。このようなわけでわが母校はやたらと古いのだが、それだけにここで学んだ人たち全員の名簿も開校時までさかのぼることができる。これがちょっとしたものなのだ。( )内はペンネーム。
幸田成行(露伴)、
尾崎徳太郎(紅葉)、
山田武太郎(美妙)、
夏目金之助(漱石)。
この全員の中学就学当初の年齢は、10歳から11歳というところ。つまり、大久保が暗殺された年、この少年たちは、凶行現場からはほど近い学校に通い始めていたということだ。
しかし、露伴、紅葉、美妙、漱石という「一中グループ」には入らなくても、明治の文人となれば欠くことが許されないのが、少なくとも他に3人いる。
二葉亭四迷に森鴎外に樋口一葉。
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source : 文藝春秋 2022年7月号