「日本ひとり負け」戦犯は誰だ? 安宅和人×河野龍太郎×尾河眞樹×小林慶一郎 緊急特集「日本経済SOS」

安宅 和人 慶應義塾大学教授、LINEヤフー株式会社シニアストラテジスト
河野 龍太郎 BNPパリバ証券チーフエコノミスト
尾河 眞樹 ソニーフィナンシャルグループ金融市場調査部長
小林 慶一郎 慶應義塾大学教授
ニュース 社会 経済 企業
大企業に期待するのをやめないと、この国の未来はない。
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(左から)安宅氏、河野氏、尾河氏、小林氏

円安・インフレは本当の危機か

 小林 世界各国でインフレが加速しています。アメリカでは今年6月の消費者物価指数が前年と比べて9.1%も上昇、40年ぶりの高水準となりました。欧州の消費者物価指数も8.6%上昇しています。

 河野 80年代終わりに日本が先進諸国で先駆けて低成長時代に入って以来、これだけ世界的な規模でインフレが起こるのは前例がありません。

 小林 長らくデフレが続いた日本でも、景気がよくなったからというわけでもなさそうですが、円安や資源高を背景として、食料品や日用品、ガス料金や電気料金などが続々と値上がりしています。上昇の幅は欧米ほどではありませんが、今年6月の消費者物価指数は、昨年同月を2.2%上回りましたね。

 河野 2%とよく言われますが、消費者のインフレの体感はもっと高いはずです。私たちは消費者物価指数によって物価の上昇を判断していますが、指数品目のうち購入頻度が高い食料品や電気料金だけを抽出すれば、6月の物価上昇率は4.9%ほどになります。モノだけを取り出しても5%台。物価上昇の体感はすでに5%でしょう。

 尾河 インフレも悪いことばかりではない。2%程度の緩やかなものであれば、消費・投資マインドが刺激されて景気も上向きになるというメリットがある。ただ、このところのインフレは要注意かもしれません。

 河野 1987年から2006年までFRB(米連邦準備制度理事会)の議長を務めたアラン・グリーンスパン氏は、物価の安定を「我々が物価にわずらわされることなく、消費など日々の生活や経済活動をおこなえる状況」と定義しています。この文脈で考えれば、もはや物価が安定しているとは言い難い。スーパーで商品を選ぶ際に、しばらく悩む消費者も増えてきた。6月に日銀の黒田東彦総裁が「家計は値上げを受け入れている」と発言して大きな批判を浴びたのは、この消費者心理の変化を見過ごしていたからです。

 小林 私は個人的に、インフレよりも円安の問題が印象深いです。先日、アメリカから知人の経済学者が来日したので、一緒にランチに出掛けたんです。1300円くらいの中華を食べたのですが、相手は「このクオリティなら、アメリカでは5000円はするよ」と喜んでいました。日本は“安い国”になったんだなあ、と改めて実感しました。

 安宅 いま日本は主要国の中でほぼ“一人負け”していますよね。誰が大儲けしているかと言えば、中東やアメリカ、ロシア、中国、英国などを含む資源・エネルギー産出国家です。ウクライナ戦争が始まってから、石油や化石燃料にかかわる業界はぼろ儲けですからね。

 例えば、アメリカの総合エネルギー企業エクソンモービル社。同社の株価は年始から上がりはじめ、脱炭素の流れで凹んでいたぶんを完全に取り戻しました。戦争で武器の在庫は一掃されましたから、軍需産業もかなり儲かるはずです。

 ロシア経済も決して疲弊していない。ルーブルはウクライナ侵攻直後に1ドル=80ルーブル弱から138ルーブルまで大暴落したものの、今では59ルーブルと爆上がり。侵攻前よりはるかに高くなっている。これも各国がルーブルでロシアの資源を買っているからです。

 小林 一方で日本円の価値は下落したまま。ウクライナ戦争の勃発後、最も大きく価値が下落した通貨だとされていますね。126円台から137円台まで落ちました。

円相場
 
一時は1ドル139円台に

EVで儲けはじめた中国

 安宅 泣いているのは我々のような非エネルギー産出国家ですよ。

 僕もさすがにガソリン車に乗るのがつらくなって、今年3月からテスラの電気自動車に乗り換えたんです。テスラの社外取締役を務める水野弘道さんが友達で、彼からの勧めもあって昨年中に申し込んだのがよかったです。

 尾河 すごいお勧めだったんですね(笑)。

 安宅 今はガソリンとは無縁の生活を送っています。それまで乗っていたドイツ車は1キロ走るのに20円かかっていた。それが現在電気代換算でキロ5円以下。資源価格の高騰がEV化を加速させる潜在圧力であることを実感しています。

 ところがEV製造のサプライチェーンを見ると、電池の原料以外はほぼ全て、中国が市場の半分以上を握っている。中国はEVでも儲けはじめているのです。日本のマスコミは、ゼロコロナ政策失敗ばかり取り上げますが、長期的に大儲けは確実。このままだと日本の自動車産業もやられかねません。そうなれば日本は本当に残念な状況になってしまう。早期に手を打たないといけません。

 河野 日本経済の将来像を語る前に、まずは、現状の円安・インフレをどう評価するかから始めましょう。現在のグローバルインフレは何が原因なのかというと、アメリカを中心とする主要先進国が実施した大規模な財政政策と金融緩和です。

 新型コロナによる景気失速を受け、各国はこれまで様々な経済対策にお金を投じてきました。米バイデン政権は昨年、国民への現金給付を中心とした約2兆ドルの景気刺激策を実施。米GDP(国内総生産)の1割に相当する巨額の歳出をおこないました。FRBの国債購入が財源です。市場にじゃぶじゃぶとお金を流した結果、物価が急激に上がったので、今なんとか制御しようと必死なわけですね。

 バイデン大統領も11月の中間選挙の前までにはインフレは抑えておきたい。前年比で9%も上がったら低所得者層は生活できませんから。選挙にはもろに影響します。

 小林 アメリカ・欧州・日本では、インフレの条件や状況がそれぞれ異なりますよね。

 河野 アメリカの場合は「ディマンドプル型」のインフレ。新型コロナの終焉で、経済活動が本格的に再開されたことで、それまで抑え込まれていた物・サービスの消費が拡大。需要が供給を上回ることとなり、物価が上昇しています。一方、日本は「コストプッシュ型」のインフレです。コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻によって資源・食料価格が高騰し、物価上昇の要因となっている。欧州はアメリカと日本の中間です。

サハリン2の施設
 
ロシア「サハリン2」の施設

日本だけが賃上げできない

 尾河 欧州のインフレはすごいことになっていますよ。私は1990年代後半にイギリスのロンドンに住んでいたことがあるのですが、当時の地下鉄の初乗り運賃は、中心部のゾーン1で2.6ポンドほどでした。今はどうなっているのか調べてみたら、5.9ポンド。安い日本円に換算すると1000円ほど。とんでもない金額です。

 ただ、欧米の場合は、物価上昇にきちんと賃金上昇が追いついてきている。アメリカは労働市場の流動性が高いため、労働需要から賃金がどんどん上がっています。また欧州は他国と比べて労働組合の発言権が強いため、賃上げの要求が反映されやすい。日本は特殊な国で、2%程度のインフレでも実質賃金は下がるため、体感インフレが消費者マインドを冷ましてしまう。これは「日本特有の問題」です。

 小林 日本でも賃上げが追い付けば、今くらいのインフレはそれほど問題にはならないはずですね。日本企業が賃金を上げられるかどうかという課題が浮上してきています。

 尾河 金利の引き上げのほうも日本だけが特殊。景気の過熱を防ぐため、各国はいっせいに金融引き締め(金利の引き上げ)に走っています。アメリカのFRBは今年3月にゼロ金利政策を解除し、その後も利上げ幅を引き上げ、7月には早くも2%台に乗せた。ECB(欧州中央銀行)も、今年7月に利上げを決定し、2014年から導入していたマイナス金利政策を解除しました。

 小林 ところが日銀の黒田総裁は7月の金融政策決定会合で、利上げについては「全くない」と言い切りました。金融緩和をこのまま継続することで、賃金と物価を緩やかに上げていくと説明しています。ほぼ10年前から同じことを言い続けていますが、物価は外部要因で上がったものの、賃金はなかなか上がらない。

 尾河 なんとか2%インフレの目標をクリアしようと、日銀だけがゼロ金利を頑なに維持している。利上げを進める各国との金利差が、円安を押し進める要因となっています。

スーパー
 
食料品の値上げも続く

パワーブックの苦い記憶

 小林 ただ、この円安も悪いことだけではない。海外から企業が戻って来るとか、海外からの投資が増えるとか、円安のメリットを生かした変化が起きて、いずれは経済が拡大するはずなので、今後も一方的に日本経済が傷んでいくことはないだろうと思っています。

 安宅 為替の動きは本当に読めないですからね。僕は1997年から2001年まで院生としてアメリカに住んでいたのですが、その間1ドル145円から102円まで動きました。途中で、もう円は当面上がらないと、なけなしの貯金を一気にドル転して、当時最先端のパワーブックを2500ドルで購入した。その後、2ヶ月で20円ぐらい一気に上がったので、「勘弁してくれよ」と泣きそうになりました。

 尾河 FRBによる利上げは、おそらくもう少し続いて3%台後半まではいく。ただ、私自身も、円安はそんなに大きな問題ではないと思っています。いずれ調整されて戻ってくる。問題は、「この程度の利上げでアメリカのインフレは本当に抑えられるのか?」ということです。

 安宅 利上げしても、アメリカはまだまだ景気が絶好調ですからね。今年7月の失業率は3.5%で、コロナ前の水準にまで回復しました。景気の過熱が抑制されているとは言えない。

 河野 新型コロナで抑えられていた需要が一気に爆発している状態です。注目すべきは、消費の主役がサービス分野へと移っていること。コロナが始まった頃は、巣ごもり需要のために耐久財や住宅の購入が伸びましたが、行動制限が解除されてからは旅行や外食など、サービス産業への需要が一気に増えた。夏には多くの家族連れがバカンスに出掛けましたし、年末にはクリスマス休暇も控えています。

 尾河 利上げをおこなえば、借入での購入を前提とする耐久財消費や住宅投資は鈍るとされています。果たしてサービス消費への効果は不透明ですよね。

 河野 そうなると、ソフトランディングはなかなか難しい。相当思い切ったことをして景気を悪化させないと、現在のインフレは落ち着かないかもしれません。過去を振り返れば、1979年から1987年までFRB議長を務めたポール・ボルカー氏が、「ボルカー・ショック」と呼ばれる大胆な金融引き締め策を実施しています。失業率が11%に跳ね上がるなどの反動はありましたが、景気後退と引き換えに高インフレを見事に抑え込んだ。

 今後、ボルカー・ショック並みの金融引き締めがおこなわれるとすれば、一時的にドルは高騰するでしょうが、同時に米国経済は大きく後退する。そうなると安全通貨としての円が買われ、2年後あたりには円高で大騒ぎ……なんてこともあり得るかもしれません。

「ずるずる金融緩和」の重い副作用

 小林 アメリカの景気が冷え込めば、日本経済は大きな影響をこうむります。円安・インフレよりもむしろそのことを心配したほうがいいかもしれない。我々は、目の前の危機より大きな問題に目を向けるべきですね。なぜ日本だけが主要先進国のなかで、賃金も物価も上がっていかないのか。この国を貧しくしているのは“誰”なのか。

 河野 まずは賃金の問題から行きましょうか。厚生労働省の発表によると、2022年度の賃上げ率は前年を上回る2.2%でした。4年ぶりの高水準だと多くのメディアが取り上げましたが、あの数字にはまやかしがある。係長や課長に昇格した人たちの定期昇給も含まれているのです。ベースアップだけの数字を見れば、賃上げ率は1%を切っており、ほぼ横ばいの状態です。

 小林 ただ、円安の効果で輸出企業の業績は良くなっている。2021年度の決算も非常によかったので、賃上げをおこなう企業も出てくるのではないですか。

 河野 日銀も少しは期待していますが、話はそう簡単ではない。為替は変動が激しいからです。先ほどもお話ししたように、円安は一時的な現象になることが多く、来年か再来年には円高の局面がやってくる可能性はぬぐいきれません。そうなれば、輸出企業の業績は一気に悪化することになるから、冬の時代に備えて体力を温存しようとする。1度くらいボーナスを上げることはあっても、ベースアップはなかなかやらない。

企業が賃上げしない理由

 尾河 なぜ企業は賃金を上げないのか。雇用のセーフティネットの面は重要ですが、日本の厳しい解雇規制が問題の大元にあるのではないでしょうか。経営が苦しくなっているのに、よほどの理由がない限り、従業員の解雇はできない。そのような状況で「賃金を上げてください」と言われても、経営側としてはなかなか難しいのが現状だと思います。

 河野 将来的なマーケットの縮小も、理由の1つかもしれません。日本経済はすでに成熟しきっており、これ以上の大きな成長は望めないと皆諦めています。社会では少子高齢化が進み、人口も縮小していくと見られています。将来の見通しが暗いため、賃上げすると後々経営が苦しくなるのではないかと、企業のトップたちは考えてしまう。投資をするのも海外ばかりです。

 尾河 厳しい時代だからこそ、企業も戦略を変えていくべきだと思います。雇用の調整を柔軟におこなえるようにする、仕事で成果をあげた人が報われるような報酬体系にするなどの努力をすべきです。硬直化した今の状態では賃金も上がらないし、イノベーションも起こりません。

 河野 賃金を上げない代わりに、日本企業は内部留保をひたすら増やし続けてきました。この内部留保こそ、日本経済の停滞を招いている大きな要因です。私はこの10年間、大企業経営者と話すたびに「皆さん方がため込むから経済が回復しない」と言い続けてきました。ところが新型コロナの到来で向こうは自信を持ってしまった。ある財界首脳に「河野さんの言うことを聞かなくてよかったですよ。売り上げが減っても、雇用リストラも倒産もしなくて済みましたから」と言われてしまいました(苦笑)。

 小林 似たような記憶が私にもあります。2015年だったか、ある自動車メーカー役員が講演会で、「私たちは1997年の金融危機の際、貸し渋りで困難を経験しましたので、それを教訓にして、今はしっかりと手元資金を貯め込んでいます」と誇らしげに語っていた。日本経済の観点から言えば、そんな大昔のことなんて忘れて、チャレンジ精神を持ってほしいと思ったものですが、その姿勢は今も変わらない……。

ゼロ金利は“痛み止め”

 河野 日本企業が活力を失ったのは、日銀のゼロ金利政策の弊害も大きい。ゼロ金利下では利払い費が抑えられるので、実力のない企業がどれだけダメな経営をしていても淘汰されません。そんな企業に雇用が滞留するから、経済の新陳代謝も起こらない。ゼロ金利がもたらす円安も同じで、それなしではやっていけない低収益企業が増えています。国全体の生産性が停滞するのも、賃金が上がらないのも当たり前です。

 小林 金利を上げないぶん、企業から成長を取り上げていますよね。今やっている事業を安定的に続けていれば、収益が少しでも上がれば金利は返せてしまう。リスクをとって新しいことに挑もうとするモチベーションは薄れていく。これが日本企業の最大の問題かもしれませんよ。

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source : 文藝春秋 2022年10月号

genre : ニュース 社会 経済 企業