サイエンスライターの佐藤健太郎氏が世の中に存在する様々な「数字」のヒミツを分析します。
10月9日、F1日本グランプリを岸田首相がノーマスクで視察したことが話題を呼んだ。インバウンド再開に向け、諸外国並みに脱マスクを図りたいというのが政府の本音なのだろう。また20日の国会では、猪瀬直樹氏が「同調圧力からの脱却」を訴えてマスクを外して質問しようとし、制止される場面もあった。
この同調圧力とは、結局のところ何なのだろう。『「空気」の研究』(山本七平著)には、「臨在感」という言葉が登場する。日本人は、ただの物質でしかないものに特別な何かを感じとり、精神的影響を受けてしまいやすいという。「皆の意見」は具体的な存在ですらないが、あたかも実在する権威のように振る舞い、日本人の心を支配しているというのだ。皆がマスクをし続けるのは、こうした影響も確かにあるのだろう。
だがあるアンケートでは、コロナ禍が収束してからもマスクをつけ続けたいと回答した人が、54パーセントにも上っている。これは、ただの同調圧力だけでは説明がつきそうにない。筆者自身、マスク生活はさして苦痛でもなく、風邪を引くこともなくなったので、今後も人前ではマスク着用でも構わないと思っている。
おそらく、コロナ禍以前の生活は「ばっちかった」と、皆が認識したのだと思う。思っていた以上に我々は唾液の飛沫を飛ばし合い、感染症をうつし合っていたのだ。この「ばっちい」という感覚は、案外重要なのではと思える。目には見えないが、そこに不浄なものの存在を感じ取るというのはまさに臨在感的な感覚であり、日本人特有なのではないだろうか。コロナが本当に収まりもせぬうちにマスクを投げ捨てた、欧米人の感覚とは間違いなく大きな差がある。
とすれば、我々は「同調圧力」と「ばっちい」という形で現れた臨在感によって、二重にウイルスから守られていたのかもしれない。コロナ禍当初から、日本と欧米の被害の差に皆が首をひねってきたが、いわゆる「ファクターX」の何割かは臨在感によるものなのではと思える。
猪瀬氏の主張通り、同調圧力が日本を毒している部分があるのは間違いない。だがコロナ禍に限ってみれば、臨在感的感覚は日本人にとってプラスに働いた。同調圧力との闘いは、脱マスクではなく他でやっていただく方がよいのではないか。
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source : 文藝春秋 2022年12月号