畳の上で死ねなかった人々

記者は天国に行けない 第9回

ニュース 社会 メディア
「悲劇の死を書き続ける」。記者たちはそれぞれに誓った

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 夏の光線に射られて、一歩ごとに汗がしたたり落ちてきた。道端で拾った長い棒で背の高い草をビュンビュン払っていると、空き地の向こうから、こちらを不審げに見つめているおばさんがいる。交番にでも通報されると面倒だ。私は小さく頭を下げた。

 ――いやいや、怪しい者じゃないんですよ。新聞社を休んで、刑事さんの犬を1日中探しているだけなんです。

 おばさんやお巡りさんに、そんな言い訳が通じるだろうか。社員証や名刺を示せば、たちまち会社や警視庁に連絡が行くだろう。考えただけで、うんざりした。

 刑事の飼い犬がいなくなった。子供のいない刑事夫婦が、我が子のように可愛がっている老犬だった。私の担当する警視庁捜査二課の主任である。

 捜査二課は汚職や詐欺、横領、選挙違反などの知能犯罪を追及する部署だが、そのなかでも彼は、「ナンバー」と呼ばれる汚職摘発専門、名うての捜査員だった。

 高校時代から乱暴者だったらしい。肩の肉が盛り上がって首短く、「このバカヤロー」が口癖だ。いつもむらむら悪態の火をたぎらせているような粗暴毒舌の刑事がしかし、その日はしょんぼりして年休を取り、愛犬を探し回っている。

 そこで、捜査二課担当を命じられて間もない私がここはひとつ、先に見つけ出して恩を着せてやれ、と計算して会社を休み、その犬探しも2日目に入っていた。

 それまでは、住宅地の曲がり角の電柱の陰に突っ立っていた。駅から歩いて15分ほどのところだ。刑事のしもた屋が、その電柱の先の路地を入って20メートルほどの突き当りにあった。

「あれでも読売には好意的な人だから」という引継ぎを、前任の記者から受けていた。読売新聞社で警視庁詰めになると、担当する刑事たちの住所録を前任者から渡され、そのなかの誰が読売の檀家――つまり情報源で、この刑事は石部金吉、これは朝日記者のシンパで、こっちは毎日と通じているらしい、といった説明を受ける。他社の新聞記者のなかには檀家を後輩に引き継がず、自分個人の情報源にしてしまう者もいたが、読売の社会部は、この引継ぎをきちんとこなして世代交代をしていく古色蒼然たる組織だった。

 だが、好意的なはずの刑事は家に上げてくれない。仕方なく、朝は電柱の陰で出勤を待ち、夜は終電の時間まで自転車で帰宅するのを待ち続けていた。

 その電柱の脇からいろんなものが見えた。下町のからりと落ち着いた暮らし向き、記者の家庭にはない家々の団欒、夫婦のいさかい、それにライバル他社の動き――。

 NHKの記者がある朝、真新しいスポーツシューズを履き、刑事の家の前で待ち受けていた。刑事は自転車で門から飛び出して来るので、駅までジョギングをしながら取材をしようというのだ。あわただしい朝駆けでかち合うわけにはいかないから、こちらは電柱から少し下がって模様眺めだ。

 ぎょろりとした目の刑事が出てきた。NHKが威勢よく足踏みを始めた。「きょうは駅までオヤジさんの自転車に付いていきますよ」なんて言っているんだろう。それに応えて、オヤジが何か軽口をたたき、自転車をこぎ出す。「せいぜい頑張れよ」とでも言ったのか。NHK、タッタッタッと付いていく。

 路地を出て電柱の手前を左折すると、オヤジは勢いよくペダルを踏んだ。NHK、早くも息切れ。それを見て、自転車のスピードが上がる。意地悪だな。NHK、質問するどころではない。ヨタヨタしている記者を振り向いて、オヤジが大声。「あばよー」と聞こえた。

 ――バカだなあ。不養生の記者が自転車とかけっこをしてどうする。

 それにしても、同じ警視庁記者としてはどこか悔しい。NHKに代わってオヤジの鼻を明かしてやりたい。しばらく考えて、菓子折りを買い、そこから1番近い読売新聞の販売店に行った。

 翌朝、オヤジが家から出てきた。ギョッと目をむいたのがわかった。門前の私が、古い配達用自転車で待ち構えていたからだ。

「お前、その自転車、どうしたんだ?」

「借りてきたんですよ」

「嘘つけぇ! 盗んできたんだろう」

「そこの専売店で借りてきたんですよ。ほら、自転車の脇に読売と書いてあるでしょ」

 毒舌刑事の驚く顔を見ながら駅まで並走した。何かを聞き出したわけではないのに1日中、愉快だった。新聞販売店の主人には、「私は読売の記者ですが、取材のために時々、自転車を貸してくれませんか」と頼み込んでいた。記者12年目、35歳を過ぎていた。

 NHK記者と刑事のドタバタ劇を眺めていて、仕事のなかに楽しみを見つけなければやってられない、と思ったのだ。高杉晋作の流儀でいえば、「面白きこともなき世を面白く すみなすものは心なりけり」ということだ。

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 それ以降、わが自宅から遠くない、別の刑事宅に朝駆けするときには、ハイヤーのトランクに私のミニサイクルを積んで回ることにした。やはり刑事の自転車と並走するためだ。郊外の駅まで自転車通勤する警察官は多かったのである。

 それでどれだけの成果があったかと言えば考え込むしかない。ある朝、私を振り切ろうという刑事の後を追い、刑事の自転車に接触してひっくり返った。2人とも泥だらけ。「バカヤロー。何やってんだぁ」。倒れた刑事が怒鳴り声を上げた。そんな日は、「きょうは俺の勝ちだったなあ」と思うことにしていた。自分を否定すると、愚かしい警視庁詰めは務まらない。

 毎日午前5時前に出て、迎えのハイヤーで朝駆けし、車中で仮眠しながら、午前2時前後に帰宅するのである。日曜日も午後3時には夜回りの車がやって来る。日曜日の大河ドラマはたいてい刑事の茶の間で一緒に見た。これが3年間、ほとんど休みなしに続く。

 私は暴力団を担当する捜査四課も担当していて、記事はよく書いた方だとは思うし、編集局長賞なども貰ったが、電柱の陰やしもた屋の庇の下で膨大な時間を無駄にした。

 惨憺たる日々のなかに良いことがあったとすれば、その1つは、見知らぬ人に会って話すことが全く苦にならなくなったことである。人に好かれる秘訣は先んじてその人を好きになることだ、ということも知った。

 そうして連日通った毒舌刑事の老犬は数日後、ふらりと帰って来た。それを聞いて拍子抜けしたが、彼は喜色満面、私に「まあ、うちに上がってくれよ」と言い出した。「貴君の愛犬捜索活動の努力を多とする」というところだろう。

 それから居間に招き入れて彼は、私の居場所である電柱の話を始めた。

「お前の立っている電柱な、あそこに鶴岡はいつもいたんだよ」

 それは社会部の5年先輩の鶴岡憲一のことだった。寅さんのような小さな目をして、質朴を絵に描いたような小柄な記者だった。

「鶴岡はいつもいた。明日はガサ入れだという日だったかな、面倒な夜にあいつが立っていたんでな、俺は裏から隣の塀を乗り越えて家に入ったわけさ。次の朝、家を出ようとして玄関から見たら、ツルの野郎、昨日とおんなじ格好で、電柱に寄りかかって待ってやがるんだ。徹夜したんかなあ。あいつの粘りは凄いよ」

 鶴岡は東京教育大学を卒業している。郷里に戻って1度は教師になろうとしたが、学園闘争で留年して記者になっていた。刑事の言葉で、電柱の引継ぎは彼から始まっていたことを思い出した。

「お前もな、あれくらいでなければなあ。ツルの電柱にはな、あいつの涙が沁み込んでるんだぞ」

 後で電柱を見たら、鶴岡の目の高さのところが涙の跡のように黒いシミのようになっていた。彼は天体観測が趣味で、哀しいことがあると、天体望遠鏡で星を眺めているという社会部伝説があった。刑事に逃げられて、電柱にシミを作った次の夜も、空の星を眺めていたのだろうか。

「それで鶴岡には教えてやったんですか」

 と聞くと、彼は笑って言った。

「教えないよ。そんなんで感激して教えるほど、俺はウブじゃないもん」

「ひどいじゃないですか」

「なに言ってんだ。お前たちは立ってるだけで給料もらってんじゃねえか。俺は事件が可愛いの。サンズイ(汚職事件)に命賭けてんの」

 全く食えない刑事なのである。それで彼を絶対に捉まえなくてはいけないという夜は、駅の駐輪場に入れた彼の自転車の空気を抜いておいた。彼が首をひねりながら自転車を押して帰る。その夜道で声をかけるのだが、これは何度も効かない。「またパンクさせやがって、このヤロウ」と怒り出すからだ。

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「電柱の涙」の話を思い出したのはそれから29年後のことである。

 鶴岡が2015年8月12日に『日航機事故の謎は解けたか――御巣鷹山墜落事故の全貌』という単行本を、後輩の北村行孝(元読売新聞科学部長)と出版したのである。8月12日は、1985年に日本航空ジャンボ機が墜落した日だ。

 ――まだ粘っているのか。

 と私は思った。2人はその24年前にも共著で『悲劇の真相 日航ジャンボ機事故調査の677日』(読売新聞社)を出しており、鶴岡自身は2007年に定年退職していたのだ。

 ジャンボ機事故は、鶴岡が航空担当の遊軍だったときに起きた。この連載の第3回でも触れたが、乗客乗員524人を乗せた日航機は群馬県上野村の山中に墜落し、520人が亡くなっている。事故が起きると、運輸省航空事故調査委員会(事故調)では、現場に花束と線香を持っていく、という引継ぎがあったのだが、そんなことを誰も思いつかないほどの、日本航空事故最悪の悲劇だった。

 ただ、当時の事故調委員長の八田桂三は、機体残骸の主要部が残され、デジタルフライトレコーダーの記録もあったから、比較的わかりやすい、調査のやりやすい事故だと考えていた。早い時期に調査の道筋も見え、ジャンボ機の後部圧力隔壁が破れ、垂直尾翼と油圧系統を破壊されて操縦不能に陥ったこともわかってきた。

 ところが、この取材で読売社会部は次々に他紙に抜かれた。4人の生存者の1人である客室乗務員に対して、日航がひそかに事情聴取していたこと、それは圧力隔壁の破断と減圧が起きたことをうかがわせる内容だったこと、事故調が隔壁に着目して墜落現場から残骸回収に当たったこと――。その年の新聞協会賞は、全員絶望と見なされていた中で、生存者の発見と救出をリアルタイムで放映したフジテレビのクルーに与えられた。

 こうした大事件でこっぴどく抜かれると、たいてい取材記者は萎える。仕事だから懸命に取材を続けるが、どこかに「試合は終わった」という意識があるものだ。ところが、素人同然だった鶴岡は途中から猛勉強をして事故調や日航乗員組合に食い下がり、翌年に運輸省担当に就くと、少しずつ特ダネを書いた。

 ボーイング社がジャンボ機で大規模な改修と設計変更に乗り出すことを1面トップで報じたり、ボーイング社の社長、副社長にインタビューしたりして、ボーイング社の作業者が修理指示書を見誤ったためにミスが起きたことを認めさせた。

 抜いたり抜かれたりするのは記者の商売なので、そのことには感慨がわかないが、特筆すべきは風化する事件を何としても書き残しておこう、という鶴岡と北村の強い意志である。

『日航機事故の謎は解けたか』の出版元である花伝社の社長・平田勝によると、2人は直接原稿を持ち込んできて、「これを出したい」と言った。原稿には事故調委員のインタビューや秘事も記され、これまでに集めた膨大な内部資料などが含まれていた。事故調委員長だった八田が病床で安全運航のための「建議」をしようと案をまとめ、それが果たせなかったことも明かされている。

 鶴岡たちが一貫して被害者や消費者の側に立って取材してきたことを、平田は知っていた。事故調にも執拗にアプローチしたうえで、墜落事故の謎や教訓について2人なりの「回答」を出している。そのうえに、「印税はいらないから」と言った。

「その『回答』を世に問おうというのか。これは意気に感じなければな」

 と平田は出版を引受け、2500部を刷った。ほぼ完売した。

 これには後日談がある。鶴岡は今年8月下旬、花伝社から今度は『新聞記者人生――面白きこともなき世をおもしろく』を上梓した。その中にも日航機墜落事故取材の苦闘が記されている。鶴岡が「孫娘に残したいので自費出版に」と原稿を持ち込んだら、平田が「一部は花伝社が扱うから刊行させてくれ」と応えたのだという。

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 1991年3月、その訴訟判決のニュースを聞いたとたん、体中がカッと熱くなった。

 それは「鹿川君いじめ訴訟」とも、「『葬式ごっこ』訴訟」とも呼ばれていた。息子を自殺へと追い込まれた両親を、無念と疑問を晴らしましょう、と弁護士事務所に連れて行ったのは私だった。

「まさか、敗訴するなんて」という驚きの後に、忙しさにかまけてその訴訟から遠ざかっていたことがひどく悔やまれ、自責の念でいっぱいになった。日航機事故を追った鶴岡のような執念が、あのころの私には欠けていたのだ。

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source : 文藝春秋 2022年10月号

genre : ニュース 社会 メディア