著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、関川夏央さん(作家)です。
私は7歳だった。学校から帰ると母は裏の小庭にいた。1957年の秋である。そのとき35歳の母は、自分がいなくなっても元気でいなきゃダメ、と私にいった。
それから母は入院して子宮筋腫の手術を受けた。子宮筋腫ならそう心配することはなかろう、とはのちの思いだが、子宮がんの疑いもあったようだ。あれほど心細げな母ははじめてだった。
退院後、母はかわった。きつい性格の、始終小言をいう人になった。手術のせいではないか、と幼い私は疑った。
叱られてばかりいる子どもは、物語で身を護ろうとする。私の場合は、自分はこの家の子ではない、複雑な事情があってあずけられたのだ、という物語であった。いずれ本当の母親が迎えに来て、自分は新潟の片田舎から東京の世田谷というところに帰るのだ。テーブルの下で泣きながら、そう思った。
私が5歳のときから共働きの英語教師となった母は、1978年春、55歳で定年退職した。その直後に脳腫瘍と診断され、手術を受けた。退院するとき、これからはまわりにやさしくと周囲にいわれた母は、毛のない頭でうなずいた。
しばらくは平穏だったが、2か月後の盛夏に激変した。夜は眠らず、目を輝かせながら日盛りを歩き回った。銀行でお金をおろし、帯封のついたままの札束を親戚や近所の家に配った。躁病の極端な症状だった。
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source : 文藝春秋 2022年11月号