著者の網膜に刻みこまれた50年前の物語
黒川能は、山形県庄内の黒川に500年以上続く伝統芸能である。月山の麓、すっぽりと雪に埋もれる黒川の土地で、2月1日・2日、夜を徹して能5番、狂言4番を奉納する王祇祭。鎮守春日神社の氏子たちによって現在まで引き継がれ、1976年には国の重要無形民俗文化財第1号に指定されている。
本書には、黒川能と四季折々に執り行われる行事、その暮らしについてきわめて詳細に綴られるのだが、それらがすべて著者の網膜に刻みこまれた50年前の記憶の物語でもあるというところに傑出した独自性がある。読むうち、黒川能、著者の記憶の深さ、二重の幽玄に誘いこまれる思いを味わう。
1964年、東京オリンピック開催の年、平凡社に入社して3年目の著者は、創刊まもないグラフ誌「太陽」の編集者として黒川を訪ね、1年間にわたって取材を重ねる。その成果を、翌々年刊行の「太陽」2月号に特集「雪国の秘事能」と題して発表。さらに67年、淫大な写真と追加取材をまとめ、豪華本『黒川能』を刊行。現在のように黒川能が日本中に広く知られる以前、著者は、編集者として、その存在を文章と写真(写真家、薗部澄。それまで黒川能は長らく撮影が許可されていなかった)によって詳らかにした。
黒川能を知ったきっかけは、“野の詩人”真壁仁の詩「神聖舞台」だったという。東京大学文学部社会学科で農村社会学を学び、疎開先だった栃木の農村を自身の原風景とする著者にとって、庄内地方、農民による伝統芸能、ふたつがまっすぐ繋がった。思いを滾らせ、村の長老たちに取材許可を懇願して回る成りゆきもていねいに描かれる。
本書の白眉は、王祇祭に向けて行われるさまざまな行事や神事、行事食を支える豆腐炙りのようす、いよいよ迎える王祇祭の一部始終である。当地での能狂言は、中央の5流いずれにも属さず、演目、謡まわし、舞、所作、囃子、能面や装束の着付け方にいたるまで独自に継承し、練り上げられてきた。その年ごとに神宿(かんやど)「当屋(とうや)」が選ばれ、上座と下座に分けて曲目が演じられるのも黒川能ならではの仕組み。時間の流れに沿い、微に入り細を穿って神事能の事と次第が綴られるのだが、それは五十余年前の黒川能の記録であり、村人の記録でもある。
当時の能太夫のひとり、𠝏持泉さんに接し、こう書く。
「役者として『羽衣』のような位の高い幽玄能の世界に身を置くこと、その恍惚を知るゆえに、激しい労働の日々の中でも能を演じ続けることが出来るのではないか」
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source : 文藝春秋 2020年3月号