描かれた情景の奥にあるもの
安政2年(1855)10月2日、最大震度6の直下型地震が江戸の町を襲った。首都は破壊され、死者は7000人以上にのぼった。この地震の発生から被災の状況、復興に至る過程を描いた絵巻「江戸大地震之図」が「島津家文書」中の一書として伝来している。
多くの商店が軒を連ねる賑やかな風景は、夜に入って一変する。建物が倒壊し、町は炎に包まれる。火事が終息に向かうと、死者を運び出し弔う一方で、ありあわせの建材で仮小屋が造られる様子が見えてくる。あちこちに避難先を記した木札が立ち、路上で商売が再開される。
細部まで描き込まれた人々の営みは、地震の怖しさを伝えると同時に、江戸という町の強靱さを感じさせて、実に興味深い。いや、興味本位に眺めるだけで満足して、描かれた情景の奥にあるものを探ろうとしてこなかった。その点に切り込んだのが本書である。
そもそも「江戸大地震之図」は、なぜ「島津家文書」のなかにあるのか?また、ほぼ同様の図様を持つ絵巻が、アイルランドのチェスター・ビーティー図書館に所蔵されている。こちらは、摂関家筆頭の近衛家の旧蔵であった。2軸の絵巻は、どのような意図で作成されたのか?
著者は巻末近くに登場する御救小屋(おすくいごや)に注目する。江戸の町触や当時の摺物によれば、被災民に食事と寝る場所を提供するために、地震の直後に江戸城の幸橋門(さいわいばしもん)外(現在の港区新橋1丁目)に設営されたものが該当するという。著者はこれを手掛かりに、江戸の切絵図(区分地図)等を参照しながら、描かれている町並みの場所を特定していく。さらに被災した武家屋敷の男たちが持つ家紋入りの提灯から、そこが薩摩藩の芝屋敷である可能性を指摘する。
芝屋敷では、練塀の崩れ残った一角に畳を敷いて、貴人と見える人たちが避難している。何かを命じているらしい武士は当主の島津斉彬、打掛を着ているのはその奥方で、島田髷に振袖の女性は養女の篤姫と考えられる。篤姫は今和泉島津家の生まれで、将軍徳川家定との縁組のために島津本家の斉彬の養女となり、芝屋敷に滞在していた。彼女は、近衛家の養女として将軍のもとに輿入れすることになっていた。
だが嘉永6年(1853)のペリー来航、同7年の内裏火災等、当時の政局は緊迫しており、重ねて今回の大地震で、縁組の件は一向に進展しなかった。地震による被害状況と家中の様子を京都の近衛家に知らせ、あわせて縁組の進展を期すために、島津家が2軸の絵巻を作成させたと著者は論じている。
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