ひとひとりの人生に組み込まれる偶然と必然の複雑
コロナ禍の猛威が長丁場の様相をみせている。数日前、葉桜の下ですれ違った高齢の知人が溜息まじりに言う。「まさか、人生の終盤にこんな局面と対峙することになるなんて」。ずいぶんしょげているので、あわてて励ましながら、生きてゆくことのままならなさを共有する心持ちになった。
長編小説『暗い林を抜けて』は、同時代を生きるひとりの男の足跡とその内面を丹念に掘り起こして描く異色の作品である。ままならなさとともにちらちらと揺れ動く生の温み、死の気配。人物の内面の襞をあぶり出す筆致に惹き込まれるのだが、と同時に読者に手渡されるのは、ひとひとりの人生にいやおうなしに組み込まれる偶然と必然の複雑。あるいは、他者との関わりや不慮の病によってもたらされる苦さや痛み。しかし、理不尽な痛みにも血の通う温もりを通わせるところに、本作ならではの読みごたえがある。
主人公の有馬章は1965年生まれ、大手通信社の文化部に勤務する52歳の記者である。5年前に早期大腸がんの診断を受け、開腹手術を経て療養したのち、なにがなんでも現場に戻りたいと会社に訴えかけて、ベテラン記者として返り咲く。再婚した妻の弓子との間には育ち盛りの小学生の男の子がいるのだから、道半ばで力尽きるわけにはいかない。しかし、転移の兆候が見え始め、がんはどうやら再発したようだ。
命の限りを見据えた有馬は、かねてから温めていた企画を立ち上げる。タイトルは「『戦争』の輪郭線」。1テーマを3回に分けて連続配信し、5か月続ける大型連載で、すべてを自分が執筆する。第2次大戦をめぐる渾身の配信記事の内容が、主人公の人間性や思考の道筋を浮き彫りにする巧みな構造。さらに、記者として東日本大震災に関わり、「ごく普通の人間」にまつわる事柄を見続けてきた者として、有馬は多様な問いを投げかける。日本人は、戦争を自分の問題として捉え直さないまま戦後社会を作ってきたのではないか。翻って記者としての自分もまた、歴史の層に人間を埋もれさせてこなかったか。歴史と個人との接合点を探ろうとあがく姿のなかには、もちろん著者自身の視線も見つかる。
赤裸々に描かれる複数の女たちとの出会いと別れが、エロスの輝きとともに有馬の人生を照らす。京都でのみずみずしい大学生活。同級生だった最初の妻ゆかりと過ごした長崎での結婚生活は、若さゆえにぎこちなく、甘酸っぱいなつかしさが染みてくる。後年、死の気配をまとう有馬が偶然ゆかりと再会する場面は、一瞬の花火のように鮮烈だ。病に蝕まれた者同士が包まれる生の肯定感。他者との関わりを得て、人生は紡がれるのだろう。
歴史の断片が、有馬の人生の線上にさかんに浮上する。老画家が体験したシベリアでの過酷な抑留生活。物理学者、湯川秀樹が敗戦当時にしたためていた日記の一部。ホーキング博士の個人的な内幕。あるいは、京都の岩倉の土地で秘やかに伝承されてきた習俗。滋賀の朽木、とある寺の住職の口から語られる18歳の礼宮の言葉……万華鏡の内部で、本来はばらばらの断片が繋がったり離れたり、生身の有馬を通じて意味を与え合うさまに、著者の周到な企みを感じる。
有馬という男の実在を通じて、暗い林のなかで生者と死者が混じり合い、往還する場面。死の気配がかくも温い体温を持つと訴えかけてくるのは、ほかでもない小説の力だ。
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source : 文藝春秋 2020年6月号