小生すでに年を取ってはいても、この先、新しい本に出会い人生が変わるような経験をしないとも限らない。
とはいえ、この50年ほどたしかに学者として国際政治の歴史を研究し、その関連で時事的な評論も、ものしてきた。だから、この人生を振り返りそのような道に自らを進ませるきっかけとなった本を、自己紹介を兼ね取り上げることにする。
私の場合、そこには若い頃の3つの「転機」らしきものが3冊の本(あるいは全集)に深く関わっていたように思う。1つは、昭和30年代に刊行された中央公論社の旧版『世界の歴史』(全16巻)――今では新版もあるが、こちらの方が断然よい――である。高校時代に将来の進路を決める際、期末試験の前日でも偶々自宅にあった全巻のいずれかを取り出し、何度も読みふけっていたことを思い出す。
通っていた高校が時代の風潮に合わせ理系万能の教育に偏しており、時あたかも高度成長へと向かう日本では、製造業の大企業へ就職できる工学部出のエリート・エンジニアがもてはやされていたからだ。しかし、元々、数学が大の苦手ときていたところに、古代ギリシャから米ソ冷戦まで、黄河文明からルネサンス、イスラムと十字軍、そしてヒンズーのインド史など長大にして絢爛たる世界史のドラマチックさに繰り返し魅せられた受験生に「理系」という選択肢はあり得ない。ある日意を決して「落ちこぼれ」が集まる「文転」クラスへの志望変更を申し出た。これが第一の転機である。
それでも父親の勧めなどもあり、法学部に進学して法曹を目指して司法試験の勉強を始めたが、時あたかも「大学紛争」の時代、中断された授業の穴埋めに、当時、横行していたイデオロギー論議に飽きあきしていた折、ひょんなきっかけでトインビーの大著『歴史の研究』のサマヴェル縮冊版(全3冊、社会思想社)を大学近辺の古本屋で見つけ、またぞろ受験勉強そっちのけで読みふけるようになった。とりわけ、長大史(ラージ・ヒストリー)としてのそのスケールの大きさとディテールの面白さにすっかり魅了され、やがて大枚をはたいて全訳版25巻を買い揃え読破した。おかげで司法試験合格は果たせぬ夢となったが、同時に「流行中」だったマルクスやレーニン、あるいは戦後日本に独特の各種思想(特殊な平和論など)からは一早く卒業することができた。
ヒンズリー先生に会いに
とはいえ、こうなると卒業後の進路は益々限られてしまう。「トインビー先生」にならって大学院にいって歴史や文明論の勉強をするとしても、左系全盛の時代、進学先も局限される。他方、当時ちょうどキッシンジャーの秘密訪中(1971年)が世界を揺るがしていた。「米中接近」の劇的展開に刺激され、留学して国際政治の勉強をすることにしたが、さて、ではどこの国に行くか。それには何といっても覇権国アメリカに留学するのが、まさしく時代の風潮であった。だが、やはり偶然の機会から、日本では知名度の決して高くなかったイギリス人学者ハリー・ヒンズリーという人の書いた『権力と平和の模索――国際関係史の理論と現実』(原題 F. H. Hinsley, Power and the Pursuit of Peace : Theory and Practice in the History of Relations between States, Cambridge University Press, 1963 邦訳・佐藤恭三、勁草書房、2015年)という本を手に取ることになった。
当時の私の英語力では難解で、また内容的にもとても深みのある重厚な本だった。でも2つのことだけはよく分かった。国際政治も思想も、戦争と平和の問題も、長大な歴史の視野なしには理解できないということ。そして書き手の偉さと深さである。これはもう英国それもヒンズリー先生のいるケンブリッジに留学するしかないと決めた。そしてこの留学が、私の今日までの学者の、そして知識人の端くれとしての人生行路を明瞭に決めるものとなった。当時のケンブリッジにはE・H・カーやH・バターフィールドらも存命で、「歴史」について考える上で最適な碩学がひしめいていた。そんな中で「私のヒンズリー先生」は、国際政治は長大な展望をもった歴史によってしか理解しえないことを深い洞察と共にしっかりと教えてくれた。
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source : 文藝春秋 2023年5月号