てんしのうた

ハコウマに乗って 第30回

西川 美和 映画監督
エンタメ 国際 映画
 

 ヴィム・ヴェンダース監督は、役所広司さんのことを「私の笠智衆」と呼んだ。三十代から老け役で、鎌倉住まいの設定でも帝釈天の住職でも熊本訛りの一本調子を貫いた笠さんと、信長、家康、新撰組、軍人、踊るサラリーマン、心中する編集者、人殺し、木こり、トイレ清掃員……とあらゆる役を演じてきた役所さんは別種のように見えるが、余分なことをせず画面の真ん中にいられる俳優という意味では近い気もする。役所さんは有明海を挟んで西の長崎・諫早の人である。

 私は数年前、念願叶って自作の主役を演じてもらったが、完成後は記者から必ず「役所さんのすごいところは?」と尋ねられて苦心した。役所さんの台詞は正確だ。身体能力が高く、機敏なのに動きが滑らかでカメラが追いやすい。一度覚えた立ち位置や目線は寸分たがわない。撮影が中断したり日を跨いでも、直前のカットの顔色、声のトーン、瞳の潤み、全てがシームレスにつながる――しかし、記者達は浮かぬ顔。「これは恐るべき能力なんですよ!」と強調しても、もっと派手でエモーショナルな逸話を求めるのだ。監督と激論を交わしたり、神がかった芝居の真髄を語ってほしいと。

 だけど役所さんのそれは目に見えない。人を驚かさず、あるべきものを、あるべきところにそっと置いていく。普通はその「あるべき場所」は、演出家と俳優とスタッフとで徐々に探り当てていくのだが、役所さんだけは人より先にその場所にたどり着いている。激したり泣いたりする場面も、黙って階段を降りてくるだけの場面も向き合い方に差はなく、小石を一つ一つ積み上げるように、カットを、シーンを埋めていく。役への理解は体の末端まで行き渡り、指先だけ撮影しても、感情のふるえは確かに語られる。

 役所さんと仕事をした多くの人が口を揃える。「役が生きてカメラの前にいるようだ」。でも役所さん自身は、どの役も「自分とは似ていない」と言われる。「この役は私そのもの」と言って自分を奮い立たせる俳優もいるが、役所さんはそういう没入をする様子はない。いつも現場の隅で、目を閉じて台詞を繰っている。あるいはセットの作りを手足でよく把握して、小道具係にこっそり「触っても大丈夫?」と確認し、その場の物を使ってみせる。人物の動きや心情がたちまち立体的になるが、あまりに自然で、演出家は自分の手柄と錯覚したままOKを出す。小道具係が駆け寄る前に、役所さんは使った物を自分で元に戻している。

 私の映画では、一月の旭川駅で主人公が特急列車に乗り込む場面を撮った。役所さんの前後にはスキーを担いだ冬装備のエキストラを配している。通常運行便を借りるから一分以内に撮り終えねばならず、緊張が走る。扉が開き、人の列が動き始めると主人公は口から白い息を吐きながら、列車に乗り込んでいった。

 撮れた――それ以上の検証もないまま、ベルが鳴り響く中私達も慌てて乗り込んだ。帰京して編集を始め、改めて満足した。寒そうで、雰囲気が出ている。けれど繰り返し見る内に、役所さんの他は誰も白い息を吐いていないことに気づいた。意識的な動作なのだ、と初めてわかった。あえて深く呼吸して、カメラに旭川の気温を映してくれていたのである。

 後から尋ねても、「そんなことしましたかね」とはにかまれるだけだろうが、知らぬ間にそんなふうに魔法の粉を振りかけてもらっている場面がいくつもあった。天使の仕業だ。と私は思うようになった。映画の神様が遣わした天使。

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source : 文藝春秋 2023年8月号

genre : エンタメ 国際 映画