〈懐かしいような、あるいは全てが夢であったような、もし人生の時間を巻き戻せるなら、あの風景をもう一度だけ見てみたい〉
稲泉連さんは大宅賞受賞のノンフィクション作家。1979年生まれの連さんに「サーカスでの1年」は強烈な印象を残した。「小学校に入る前のあなたにほんの少し、子供らしい時間をプレゼントしてあげたかった」と、母で作家の久田恵さんが息子を連れてキグレサーカスに入ったのだ。久田さんもこの1年を『サーカス村裏通り』に書いている。
「ともに旅をする芸人たち、くわえタバコの舞台職人、売店のおじさんや炊事班の姐さん、動物たち……。二度とない奇跡のような時間で、『サーカス、楽しかったな』とずっと思ってきました。何度も思い返してきたので、『この記憶は本当にあったことなのか』『母から聞かされたことなのか』とも思うほど。とにかく言葉にならない強烈な『記憶』というか『風景』が心に焼きついていました」
書き始めるきっかけは偶然だった。「思い出の地」という新聞社の企画であるサーカスを訪れた際、昔キグレにいた芸人の八木さんがいた。後日、再会すると、当時の愛称で「れんれんか。懐かしいなあ」と、三十数年ぶりなのに昨日のことのように距離がすぐに縮まった。ここから「取材」というより、特別な時間を共有した人々に会って話したいという「記憶をめぐる旅」が始まる。
「短くとも一緒にいた人たちと語り合うことで、自分の記憶が確かめられていく不思議な経験でした」
サーカスは「非日常」の世界だが、「中」にいる人にはそれが「日常」だ。そんな「祝祭共同体」が全国を旅し、いろんな背景をもつ人たちが通り過ぎていく。
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source : 文藝春秋 2023年9月号