タラップおりて ハッスル、ハッスル♪
ぞうりをぬいで あ、ハッスル、ハッスル♪
取材が一段落したころ手ぶりを交えて目の前で踊り始めたのは、日本美術研究の大家である辻惟雄先生(御年91)。戦後に江戸時代の画家・伊藤若冲を“再発見”し、この国の美術界の光景を一変させたことでも知られる辻先生の思わぬ(?)俊敏な動きに、私は呆気にとられました。
この日は『文藝春秋』最新号に同時掲載された「日本の顔」と特集記事「若冲と70年安保」の取材で、先生の自宅がある鎌倉をふたたび訪れていました。先生行きつけの喫茶店で年齢を重ねても衰えない“奇想の画家”への愛やその風変わりな半生について、お話を思う存分にうかがっていた文藝春秋取材陣。
取材にあたり私は先生に聞いてみたいことがありました。
辻先生は東大教授を定年の60歳で辞める前年から、京都にある国際日本文化研究センター(日文研)で教授職に就いています。辻先生が所属していた当時の日文研といえば、所長が哲学者の梅原猛氏から臨床心理学のパイオニア・河合隼雄氏に代わる頃。そのもとに後に「令和」の名づけ親となる日本文学者の中西進氏や、「中心と周縁」理論などで知られる異端の文化人類学者・山口昌男氏、「歴史人口学」の父たる経済学者の速水融氏らが綺羅星のごとく集っていました。
自伝『奇想の発見―ある美術史家の回想―』を読むと、当時の日文研では教授たちの集う新年会が行われていたとありました。その新年会で「さぞかし多彩な隠し芸が出るかと思ったら、意外と誰も名乗りを上げない」ので、辻先生が踊りを披露すると「皆に呆れられた」と綴っているのです。
錚々たる知識人が集う会合でひそやかに披露され、後年日文研で語り継がれることとなった“辻踊り”とはいったい何なのか――。私はその正体を思い切って尋ねてみることにしました。
「えー、あれは『ひらけ!ポンキッキ』だったと思うんですが、『ハッスルばあちゃん』という曲がありまして。それを歌いながら踊ったんですよね。たしか、こんな曲で……いなかの、いなかの、ハッスルばあちゃん~♪」
聞けば先生はそういった宴席が昔からお好きのようで、教え子の学生や新任の先生などとよく一緒にお酒を楽しまれていたそう。取材の場で再現してくださった“辻踊り”もそのキレは衰えていませんでした。70代までスキーを、80代まで水泳を嗜んでいた辻先生は撮影取材の際にも、北鎌倉・東慶寺の急勾配の階段をすたすたと上っていくほど壮健を維持しています。
今なお活力旺盛な辻先生ですが、2日に渡っての取材で強く印象に残ったのはそのお人柄。「東大教授」「多摩美術大学学長」と聞けば思わず構えてしまいそうなご経歴ですが、決して偉ぶることはなく、つねにシャイで優しい先生。
撮影にひどく恐縮なさっていて、一時は「小生はもうじき92歳」「取材は何卒御放念いただきたく」と書かれた長文の手紙が編集部に届き、企画の成立が危ぶまれました。取材中にも「私のような者が『日本の顔』だなんて、そんな頁に出ていいものですか……。まあ、“日本の顔”といってもいろいろあるもんナ」とポツリ。
その美術史家としての歩みは記事「若冲と70年安保」に譲りますが、辻先生は決して研究者として王道をまっすぐには進んでいません。多くの「寄り道」をしながら、当時はマイナーだった岩佐又兵衛や伊藤若冲、曾我蕭白といった自身の興味関心を突き詰めることで従来のアカデミズムの盤面を転覆させ、日本美術史を更新する様々な功績を残しています。
年を重ねても諧謔の精神を失うことのない先生の姿を見て、こんな歳の取り方をしたいなと思うばかりでした。
(編集部・山下)
source : 文藝春秋 電子版オリジナル