「悪いんだけどさ、癌になっちゃったみたい」。14年前のブラック・ジャックみたいな手術からしずかな雪の2月6日朝を迎えるまで──心いっぱいの感謝を込めて綴る
10年前、息子が生まれて体力的に毎日がいっぱいいっぱいだったころ、夜中に授乳をしていたら、ふわっと、蘇った思い出があった。小さな灯りだけの薄暗い静けさの中で、脳裏に見えたあざやかな風景。
少し鼻にかかった父の声が、耳元で歌う。
「せらちゃん、せらちゃん、せらちゃんのちゃん。けらちゃん、けらちゃん、けらちゃんのちゃん」
私はまだ2歳にもなっていなくて、父は私を抱いて、暗い廊下を行ったり来たり。私の背中をポンポンと優しくたたきながら、ゆっくり歩いている。頬を父の肩に載せて気持ちよく揺られていると、父の肩越しに、大きな夜景が見える。小高い丘の上にあった家からは、ダウンタウンが下の方に、無数の蛍が舞う湖面みたいに光っている。覚えているのは、そのほんの数秒。昨日のような鮮明さに戸惑った。寝ぼけた妄想か、夢なのか。でも、あまりに父の声がリアルで、たったいま耳元で再生されたかのようで、翌朝、おもわず一番に父に聞いてみた――ねぇ、パパ、こんな歌、知っている?――夢の中からずっと頭の中をぐるぐると回っていた歌の調子を、そのまま、父の前で真似てみた。父は、ちょっとびっくりした顔で、言った。「覚えているよっ、もちろん! 昔、お前が夜中に起きちゃった時しょっちゅう歌ってたもの。へぇ、懐かしいなぁ。あれ? でも、なんでお前それ知っているの?」
あるとも知らなかった記憶が、突然、あんなふうに鮮やかに蘇ったのは、自分でも本当に不思議だった。たぶんあの数秒が、私の人生最初の記憶だ。出産後初めての経験の連続で毎日奮闘していた頃だったから、思い出が遠くから引っ張り出されたのかもしれない。
早朝の父の姿
私は、父がサンフランシスコ交響楽団の音楽監督をしていた時代に生まれた。サンフランシスコの白い家は赤い三角屋根がとても可愛かった。家の前のしずかな道路の行き止まりには鬱蒼とした小さな林があった。朝夕はうっすら雲のような霧が漂い、時々丘から降りていく霧が、町をすっぽり覆って、ダウンタウンはぼんやりした白い池に見えた。そんな時には遠くのゴールデンゲート橋だけが、霧上に突き出ていた。
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