小澤征爾さんとの最初の出会いは、大学2年生だった60年前のこと。桐朋学園弦楽合奏団のニューヨーク公演を指揮することになった小澤さんが、練習のために学校へ来てくれた時である。齋藤秀雄先生の厳しい指導でアンサンブルの基礎を叩き込まれていた私たちの演奏は、精密だがどこか生真面目な堅さがあったようだ。小澤さんがチャイコフスキーの「弦楽セレナード」の指揮を始めると、オーケストラの音に自由さと開放感が加わり、周りのメンバーがいつになくやる気を出してぐいぐい弾いているのが、目の見えない私にも伝わってきた。まるで魔法にかかったような愉悦の中で、私も夢中になって弾いていた。
齋藤先生は「ヨーロッパの良い伝統を正しく学べば、日本人も西洋音楽を自分のものとして表現できる」との信念で私たちを指導してくださった。先生の没後10年を機に教え子を集めた「サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)」が結成され、小澤さんがこれを指揮してヨーロッパで大成功。たちまち世界のトップオーケストラにのし上げてしまった。私は1990年の3回目のツアーから参加し、最初のコンサートはザルツブルク音楽祭へのデビューだった。
リハーサルの初日、小澤さんは1年ぶりに世界各地から集まったメンバーに、まるで学生を教えるように細かく指示を出し、手際よくオーケストラを束ねていった。曲はブラームスの交響曲第1番、始まって間もなく、彼はヴァイオリン奏者たちに「和波さんにもわかるように弾いて」と言ったのである。曲の冒頭では、ヴァイオリンが半音ずつ上昇する緊張感に満ちた主題が提示されるが、ただ音が上がってゆけば良いのではなく、そこには強いエネルギーを伴った表情が必要だ。指揮棒が見られない私にも音の変わるタイミングがはっきりわかるように、全員が表情を付けて弾いてほしい、と小澤さんは言いたかったのだろう。
リハーサルのたびに、彼は「指揮を見るだけでなく、互いに聴きあって弾くように」と強調した。他の楽器を聴きながら合わせる訓練は、大学時代から十分に積んでいて一応自信がある。このような小澤さんの音楽作りのお陰で、普段は異なる場で演奏している私も、仲間たちとの合奏に溶け込め、ツアー大成功の喜びを分かち合うことができた。
小澤さんの奔走が実を結び、92年から長野県松本市でSKOを中核とする「サイトウ・キネン・フェスティバル松本(現セイジ・オザワ松本フェスティバル)」が始まった。小澤さんには、「オーケストラというものは交響曲だけでなく、オペラを演奏して初めて一流になれる」という信念があり、フェスティバルでは初回からオペラを取り上げて、ストラヴィンスキーの「エディプス王」を上演し、大きな話題となった。複雑なオペラのパートを暗譜するのは無理、と諦めた私だったが、2年目のオネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」は比較的短い作品だったので、チャレンジすることに決めて半年ほど前から楽譜を勉強して演奏に加わり、貴重な経験を積むとともに、小澤さんもこの努力を高く評価してくれた。その後も、ブルックナーやマーラーなどの巨大なシンフォニーを弾いていると、彼は「あんた、これも暗譜で弾いてるのか、すげえなあ」などと感心してくれた。オーケストラのパートをその都度暗譜し、大曲に挑むのは簡単なことではなかったが、素晴らしい仲間たちと小澤さんの音楽作りを共有できる喜びは、毎年私を松本へと駆り立てた。彼はよく「日本人がどこまで西洋音楽をやれるか、実験のつもりでやってるんだ」と話していた。愛する音楽のためにチャレンジを続けた小澤さんは、楽譜や指揮が見えない状態で合奏に参加する私のチャレンジの意味を、誰よりも深く理解してくれていたのではなかろうか。
2022年11月、小澤さんの最後の演奏となった、国際宇宙ステーションに音楽を届ける企画「ONE EARTH MISSION」に、私もその日だけ飛び入りで参加した。演奏が終わり退場する時、小澤さんは私に車椅子で近づき、しっかり手を握ってくれた。「来てくれてありがとう」、心でそう言ってくれたに違いない。持てる才能を音楽のために燃やし尽くして旅立った小澤さん。その精神を若い音楽家に伝えるため、私も残りの人生を捧げ、少しでもその恩に応えたいと思っている。
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