「終戦記念日特別対談」僕らが焼け跡で思ったこと

伊東 四朗 喜劇役者
半藤 一利 作家
ニュース 社会 昭和史 歴史
7歳(伊東)と14歳(半藤)の時、あの大空襲があった――「戦争を経験した世代は相当しぶといと思う」。東京の下町生まれの2人が、あの時代を振り返った。

2人が夢中になった「遊び」

 半藤 伊東さんとは今日が初対面ですが、2人とも東京の下町で生まれ、子供時代を過ごした共通点があります。私は昭和5年生まれ、向島区吾嬬町(現・墨田区八広)で育ちましたが、伊東さんは下谷だそうですね。

 伊東 私は12年生まれで、東京市下谷区竹町で育ちました。省線電車の最寄駅は御徒町でしたね。

 半藤 そうですか。向島と下谷は近いんだけど、隅田川を挟んで向こうとこっちでは全然ちがいましたね。我が向島は“川向こう”と呼ばれ、まだあっちこっちに田んぼや畑が残る新開地。親父は運送業者でしたが、小学校の同級生は豆腐屋、下駄屋、自転車屋、酒屋……商店のガキばかりだった。

 伊東 当時の御徒町のあたりは住宅だらけで、複雑に入り組んだ路地の一番奥が家だったんですよ。この間、訪ねてみたら路地がまだそのままで、これで今の建築基準法に引っかからないのかと心配になりました。親父は洋服の仕立て職人でしたが、働くのより遊びが好きで母親は苦労のし通しでした。そんな路地で育った子供ですから、遊びといったらベーゴマとメンコ。あとは、「駆逐水雷」なんかもよくやりました。

 半藤 懐かしいなあ。その他「押しくらまんじゅう」「馬跳び」「あの子が欲しい」なんて……。そうしているうちに、日常の中に戦争が入り込んできましたね。

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学童疎開の様子

ラジオからの「東部軍管区情報」

 半藤 太平洋戦争開戦は昭和16年12月8日。私は小学5年生でした。霜でびっしりのものすごく寒い朝でね、家族で食卓を囲んでいたら、午前7時のニュースが始まったとたん、「しばらくお待ちください」とアナウンスがあった。あれっ、ニュースなのに珍しいなと思っていたら、「臨時ニュースを申し上げます」という言葉に続いて、「大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」と来た。学校に行ったら、校長が全校生徒に「虐げられたアジアの民の先頭に立って闘う時なのだ!」と訓示を垂れ、先生はみんな明るい顔をしていました。

 伊東 私はまだ4歳で記憶は残っていないのですが、毎日のようにラジオで流れていた「とうぶぐんかんくじょうほう」という言葉は今も脳裏に焼き付いてます。戦争も初めの頃は、敵の戦艦を撃沈した、なんて勇ましいニュースばかりですから大人たちも大喜びでした。それで子供たちも意味もわからず、「東部軍管区情報! 東部軍管区情報!」とマネしたんです。

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source : 文藝春秋 2019年9月号

genre : ニュース 社会 昭和史 歴史