著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、椎名 誠さん(作家)です。
ぼくは世田谷区の三軒茶屋で生まれた。あるとき、その場所の確認が必要になって戸籍謄本をとりよせその場所を探したことがある。背の高い松が沢山はえている林のなかにそこはまだ残っていた。後日母にそのことを知らせると急に震える涙声になった。電話での話だったがぼくはちょっとうろたえた。
母は老齢になっており、現実と遠い昔の日々がまばらになっているらしく、琴線のなにかを刺激してしまったらしい。
母が亡くなってからのある日、そのことを姉にいうと「あの頃はおかあさんの人生でいちばんいい時代だったからなのかも知れないね」と言っていた。その後詳しい話を聞く機会がないまま、姉も他界してしまった。人生もある程度の年齢になってくると、突然の貴重な時間というものがあるんだなあと残念に思った。
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後妻だったその母から生まれたぼくは五人兄弟の下から二番目。父は公認会計士という仕事をしていた。
ぼくが五歳の頃にわが一家は千葉の幕張に越した。父はその地に越して間もなく「ちから尽きる」ようにして急逝した。ぼくは小学校六年だった。
葬儀のときに子供にでもわかる緊迫した空気が漂った。弔問客との対応のときだった。そのときぼくの目には兄がいっぺんに増えたように見えた。同じような体型と顔をした初対面の兄がほかに四人もいたのだ。あとでわかってくるが異母兄弟だった。なにかと複雑な家なんだな、ということをそのときの雰囲気や気配で知ったのだった。
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source : 文藝春秋 2024年8月号