「どうして小室さんでダメなのか、わからない」。筆者が聞いたタツの信念
少数民族の生活改善のために尽力
秋篠宮皇嗣妃殿下紀子さまの父、川嶋辰彦さんが11月4日午前、都内の病院で息をひきとった。81歳だった。
「とても穏やかな最期でした。痛みも、感じなかったと思いますよ。眠ったまま、静かに、逝ってしまいました」
と妻の和代さんは語る。
学習院大学名誉教授。経済学部で長く教鞭をとった。同時にタイの山村で4半世紀にわたり、少数民族の生活改善のために力を尽くしたボランティア活動家であり、教育者でもあった。
どんな人にも分けへだてなく丁寧に接し、タイや日本の若者から「タツ」と呼ばれて慕われた。
縁あって、34年にわたって、お話をきく機会を得た。くちはばったい言い方だが、取材する人、される人、という関係は、とうの昔に超えていたと思う。
生前の思い出を語りたい。
「どうして小室さんでダメなのか、僕にはさっぱりわからない」
孫の眞子さんの小室圭さんとの結婚について、風当たりが強かったころ、どう思うかを尋ねてみたことがある。その時の、川嶋さんの反応だ。
そして、手帳を取り出し、カリール・ジブランというレバノン出身の詩人の詩を読んでくれた。
《あなたの子は、あなたの子ではありません……あなたを通ってやって来ますが、あなたからではなく、あなたと一緒にいますが、それでいてあなたのものではないのです……あなたの家に子供の体を住まわせるがよい。でもその魂は別です。子供の魂は明日の家に住んでいて、あなたは夢のなかにでも、そこには立ち入れないのです》
「ね、いい詩でしょ?」
と、共感を求めた川嶋さんの顔を、いまも忘れられない。
小室さんの人格や家の事情について、川嶋さんが特に詳しく知っていたわけではないだろう。ただ結婚は本人同士が話し合って決めることであって、誰も関与してはならない。そんな、強い信念を持っていた。
娘の紀子さまの結婚のときも、そうだった。
初めて川嶋さんに会ったのは1987年、川嶋さんが学習院大学経済学部教授のころだった。宮内庁担当だった先輩の内藤修平記者に連れられて、東京・目白にある大学の研究室を訪ねた。
「紀子のことはよくわからない」
娘の紀子さまが、同じ学習院大学で1年先輩の「礼宮さま」(現・秋篠宮文仁皇嗣殿下)と親しく交際している。そんな情報を内藤記者はいち早くキャッチしていた。
皇室ではこの時期、礼宮さまと兄の浩宮さま(現・徳仁天皇陛下)が、そろって結婚適齢期を迎えていた。誰と結婚されるのか、については、今以上に世間の関心が大きかった。新聞社としては、「宮さまの結婚相手」はなんとしても「トクダネ」で報じたいと思っていた。
当時、私は30代前半。支局勤務を経て東京社会部記者となり、事件はもちろん、上野動物園のパンダの妊娠や中国残留孤児の親探し、大学の教育改革など、実にさまざまなテーマの取材に関わっていた。
先行していた内藤記者の取材に若い私が加えられたのは、「女性の視点」から、お相手の女性をみてほしいという会社の考えがあったように思う。今思うと、なんとも時代遅れで取材相手にも失礼な話だが、当時は大真面目だった。
そもそも新聞社は、長らく典型的な「男の職場」だ。ニュース記事は男性が書くもので、女性はニュースの「ネタ」になる側だった。「結婚までの腰掛けではないか」「夜勤や宿直ができるのか」等々の理由で、女性記者の採用には社内の反対も根強かった時代だ。
私にも入社以来、「初の県庁クラブ女性記者」など「初モノ」の肩書きがついて回っていた。100人を超す大所帯の東京社会部に女性記者はほんの4、5人。最も若い私はパンダ並みの注目度で、女性のからむ取材はなんでも降ってきた。
初めて訪れた川嶋さんの研究室は本や書類が積み上げられ、いかにも教授の仕事場然としていた。机の上に、幼い紀子さまの小さな写真が飾ってあった。黒っぽい乗馬帽をかぶり、白いポニーにまたがってまっすぐに前を向いた愛らしい姿。一家がウィーンにいた頃の撮影と聞いた。
経済、乗馬といった話に続き、ようやく本題の紀子さまと礼宮さまとのおつきあいの話になったとき、私は心底びっくりした。
「紀子のことは僕にはよくわからないから、本人に直接聴くよう、内藤さんにも申し上げてきたんです」
と、川嶋さんが言ったからだ。
お妃選びは歓迎されない取材だと感じていた。浩宮さまのお妃取材にもどっぷり関わったが、若い女性の家に突然押し掛けても、まず、インターホン越しで終わった。玄関に入れてくれれば「御の字」。どの家でも親の困惑と警戒感がひしひしと伝わってきた。まして、新聞記者に娘を会わせるなんてことはめったになかったから、川嶋さんの反応は、意外に感じられたのだ。
手強い紀子さまの「ひ・み・つ」
それから少しして、実際に私は内藤記者と目白の喫茶店で紀子さまにお会いした。内藤記者はすでに前年から何度か話を聞いており、会話はとても自然だったが、私はその時、川嶋さんがなぜ記者に娘を紹介したか、わかったような気がした。20代そこそこの紀子さまの対応は、父親にとてもよく似ていたからだ。ニコニコしながら何分でも会話はする。だが、肝心なことは話さない。
「それはね、ひ・み・つ、です」
「さあ。斎藤さんはどうだと思いますか」
じつに、手強いお方だった。
川嶋家は、父親中心の家庭だった。川嶋さんを軸に、家族4人ががっちりとまとまっていた。紀子さまが高校のころから自宅にテレビを置かなくなったのも、川嶋さんの判断だったと聴いた。おかげで紀子さまは、高校時代、それまでにもまして猛烈に本を読んだという。
「決して押さえつけないし押しつけないのにいつの間にか夫の思っている通りに事が進んでいるんですよ」
妻の和代さんから、そんな話を聴いたことがある。
本を読み、絵を描き、ピアノを弾く。小さいころから乗馬やテニス、スキーを楽しみ、手話や奉仕活動に汗を流す。紀子さまはまさに、川嶋さんにとって理想の娘だったろう。
「かわいい子には旅をさせろ」
「人種的な偏見を持たない子に育てたい」
川嶋さんのモットーにそって、大学時代には、青年の船で東南アジアも訪れている。
内藤記者はその後、九州に異動し、私は1人で川嶋家の取材をつづけることになった。礼宮さまは88年から英国に留学され、紀子さまは礼宮さまと離ればなれになったことで、ご自身の気持ちをはっきりと自覚されたように思う。
1989年8月25日夜。天皇皇后(現・上皇上皇后)両陛下が御所で川嶋夫妻に会われた、という宮内庁担当記者からの情報をもとに、確認をとるため、私は急きょ、川嶋家を訪れた。
玄関に入ると、川嶋夫妻、紀子さま、弟と、全員が集まってきた。みな、にこにこしていた。
こういう情報を得た、いよいよ婚約が決まりましたね、という私の質問に、川嶋さんは一言「ノーコメント」と答えた。
だが、ノーコメントでは婚約内定とは報じられない。食い下がった。
「ふだん川嶋先生は何でも丁寧に説明してくださるのに、今日は、ノーコメントだけ。ということは、婚約内定は事実ですね」
そう、たたみかけた。すると川嶋さんはにこっと笑い、「さすがは智ちゃん」と、大きな声で答えてくれたのだ。
翌朝、スクープが一面に掲載された。内藤記者と私が中心になって事前に準備していた婚約内定の原稿である。新聞社では、重要なできごとについては、あわてて書いてミスをしないよう、前もって予定原稿を作っている。じつはこの原稿も、2カ月ほど前の6月の時点で私が川嶋家に持参し、ご夫妻に口頭で事実確認のためあらましを説明していた。
川嶋さんは、「これは内藤さんの見た夢の中のたわごとですね」と言った。ただ、事実関係が違うのは困ります、と、経歴や教育方針などについては丁寧に説明してくれた。機は、熟していたのである。
母は結婚に深く悩んだ
その後、何度もお宅に通った。当時の住まいだった学習院大学構内の教職員アパートの前にはカメラマンがずらりと並んで、紀子さまが出てくるのを常時、待ち構えていた。その前を、同じ住人のようなふりをして出入りしたが、知った顔の他社のカメラマンに朝日新聞の記者だと見破られないかと緊張で足が震えた。
結婚式が迫ったころ、ご両親に、親としての気持ちを、あらためてじっくりとお聞きしたことがある。
母親の和代さんは、はじめは大変戸惑ったと打ち明けてくれた。宮さまとでは、育った環境も、いわゆる「家柄」も、あまりに違い過ぎ、考えられない、やめたほうがいい、そう、娘に助言したという。
私には、それはとても率直な母親の気持ちのように感じられた。紀子さまは、親には決して反抗しない娘だった。それだけに、母親としては娘がどんな気持ちでいるかを肌で感じとり、深く悩んだという。
一方、父親の川嶋さんは、最初から最後まで明快だった。結婚はあくまで本人の問題だ。本人同士が決めたことならば、親が関与してはいけない。そんな信念を語ってくれた。
「おそらく宮さまと2人で、いろいろなことを話し合ったと思います。結婚のこと、価値観のこと、生き方や人生のこと。結婚は、その上での決断だったんだと思います」
「結婚生活で苦労する可能性が多いと大勢の方が言ったとしても、こればっかりは、やってみないとわからないでしょ。それに、子どもには、苦労する権利もあるんです」
「本人たちが、未知の要素も含めて話しあって決めたのであれば、当事者の決心を尊重するのが僕は順当だと思います」
父が求めた「対等な結婚」
正論だ。だが、正論すぎて、このときの私は、これが本当に父親としての素直な気持ちなのか、はかりかねていた。だからしつこく聴いており、たくさんのメモが、取材ノートに残っている。
宮さまとの結婚を決めるにあたって、父は娘にこう助言したという。
「もし宮さまが皇室のメンバーであるということに、何がしかの影響を受けて、彼と結婚したいと思っているのなら、僕は、考え直した方がいいと思う。でも、人間として、パートナーとして、素晴らしい方だという考えから結婚したいと思っているのであれば、ぼくは君の判断を尊重する」と。
ただの一人の人間として、礼宮さまは、どういう人なのか。紀子さまは、パートナーとして、礼宮さまをどう思っているのか。
同じ地平に立った対等な人間としての判断を、父は娘に求めていた。
皇室の一員だろうが、タイの山奥で暮らす少数民族であろうが、意思のある人間は、みな対等で、尊い。当たり前の、だが、断固とした人権感覚。その後、私は、後述するタイ山村での川嶋さんのボランティア活動などを通じ、川嶋さんのこうした信念に何度も触れた。
長い時間をかけて、私は、娘を皇室へと送り出した時の父親の言葉が、川嶋辰彦という人の本質であったと得心がいったのだった。
こう書くと、なんだか理屈の勝った、お堅い人権派に見えるかもしれない。川嶋さんは、そうした強い信念を、ユーモアと、温かな情にくるんだ人だった。
フランス式のチュッ
婚約が決まった頃、一緒にタクシーで移動したことがある。町で拾った流しのタクシーで最低料金程度の移動だった。降りた後、川嶋さんは「ありがとう」と言ってタクシーの運転手に握手を求めた。運転手も客も対等、という感覚から、感謝を伝えるための行動だろうが、この運転手の方は、心底びっくりしていた。
取材で川嶋さんにお目にかかる日がたまたま川嶋さんの誕生日に重なり、お祝いに、小さな花束を持って行ったことがある。川嶋さんは喜んだ。そして、私の頬にキスをした。
頬に軽くチュッとやる、あのフランス式の挨拶だ。私が留学経験者と知っていたからかもしれないが、国内で、取材先の日本人からお礼に「キス」をされたのは、あとにも先にも川嶋さんおひとりだった。
川嶋さんは「皇族のご親戚」になったことで、自分自身の行動が取材対象になることもあった。川嶋さんのコメントを取ろうと、マンションの外で、雑誌記者が待っていることもあった。そんな時でも、川嶋さんはあわてず、騒がず、いつもと同じようにふるまっていた。
「あなた、そこは直射日光がさして暑いから、こっちの日陰にいらっしゃい」
「雨がひどいから、こちらにお入りなさい」
それからニコニコしながら、丁重に、お断りの口上を述べるのだ。
構えていた記者の心には、断られても、ほんわかと、温かな気持ちが残る。こうなると、なかなか意地悪なことは書けない。
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source : 文藝春秋 2022年1月号