著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、大山エンリコイサムさん(美術家)です。
父は北イタリアのヴィチェンツァ県にあるスキオという街の出身。パラーディオのオリンピコ劇場で知られるヴィチェンツァや、蒸留酒のグラッパが有名なバッサノに続き、県内人口三位(約四万人)だが知名度は高くない。毛織物が盛んなため「イタリアのマンチェスター」と呼ばれる。ひとりで父を育て、一〇〇歳まで生きた祖母は、ラネロッシという地元のウール工場に三〇年以上勤めた。
父は一九五二年生まれ。当時の若者らしく、ロック音楽、学生運動、ヒッピー文化に傾倒し、アントニオ・ネグリらが拠点としたパドヴァ大のヴェロナ校で学んだのち、二年間のロンドン生活を経て、来日。東京外大を卒業する。大学ふたつの学費を自己負担した点は、大学院まで親に頼った私とは対照的である。
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東京で語学講師をしながら母に出会い、日本で家庭をもつ決意をしたそうだ。時代は高度経済成長期からバブル手前。ベネトン社日本事務所の代表も務めたが、ライフワークバランスを重視して転職。数年前まで東京のイタリア大使館に勤め、歴代の日伊首脳会談や沖縄G8サミットなどに通訳者として立ち会った。
毎年八月は家族でスキオ方面に帰郷のため、私は二六歳頃まで日本の夏を知らなかった。かつてオーストリア軍との戦場だった避暑地・アジアゴ高原。その丘陵にあるシズモルという村落に山小屋風の別荘があり、山道の散歩が朝の日課だった。散歩中に私が拾った戦中の本物の銃弾を、父は今でも書斎に飾っている。
「自分で考えろ」と放任主義だった父から人生の指針を教わった記憶は乏しいが、少し思い出す。六歳頃、持っていた五百円玉を「あげる」と父に渡し、直後に「やっぱり返して」と言うと、「やっぱりはない。発言に責任をもて」と、泣いても本当に返してくれない。六歳には過酷とも思うが、私にとって言動と責任をめぐる考え方の原体験である。
小学三年生頃、皿洗いが私、皿拭きが弟の仕事となった。どの家庭もやることだが「家族みんなの暮らし。それぞれ役割があるべき」と言葉で説明されたのが印象に残った。この役割論には、父が好んだコミュニズムの思想や、ロンドンでしていたという皿洗いの記憶がエコーする。芸術作品の背後にはかならず制作の労働があるという私自身の考えも、そこにつらなっている。
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source : 文藝春秋 2024年8月号