惨めだった日系アメリカ社会
ロサンゼルスの日本人街、リトル東京から東に車でほんの10分、ロサンゼルス川を渡ったところにボイルハイツという町がある。戦前、アメリカ社会のメインストリームからはじかれたユダヤ人やロシア人、そして日系人など、雑多な人種が住んでいた地区だ。現在、ボイルハイツの住民はすっかりメキシコ系が中心だが、今でも、かつて日系人のために作られた病院や宗教施設の建物が残る、うらぶれたなかにもなんともノスタルジックな一帯である。
喜多川家が、1933年(昭和8)にロサンゼルスを引き揚げるまで暮らしたのは、ボイルハイツの借家だった。76年(昭和51)に、ジャニー喜多川の姉、メリーを取材した記者はこんな文章を綴っている。
「彼女の手元にある古いアルバムには、当時、一家が住んでいた家の前で、親子三人が写ったスナップがあるが、玄関の前に猫のひたいほどの庭があり、そのすぐ前に道路と土地の広いアメリカにしては窮屈な感じの立地条件で、ただ、あふれるばかりの陽光がまき散らされていた」(「女性自身」同年5月6日号)
ボイルハイツには、第二次大戦後も多くの日系人が住まったが、誰もが一様に貧しかった。大半の家には何家族もが同居していたし、住処さえない者も多く、そんな人々は、ボイルハイツやリトル東京の日系寺院を頼った。事実、ジャニー喜多川の父、諦道(たいどう)が戦前、主監(住職)をつとめた高野山米国別院(当時は大師教会。以下、別院)でも、何十名もの日系人が肩寄せ合って暮らしていた。
皆、収容所帰りだったからである。
日米開戦から約2カ月後の42年(昭和17)2月19日、ルーズベルト大統領は、「国防上危険な者の退去を可とする」大統領令9066に署名した。その結果、約12万人の日系人がカリフォルニア州を含む軍事指定区域から、全米10カ所の荒野に急拵えされた収容所へと送られた。収容所といっても、アメリカはナチスのような虐殺は行っていない。とはいえ、4年間の収容所暮らしはあまりに長かった。
戦後、日系人がボイルハイツやリトル東京に戻ると、アパートや借家にはもちろん別の人々が住んでいたし、持ち家でさえ不法占拠されていた。
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