ベラルーシによる日本人スパイ容疑摘発事件を読み解く『スパイのためのハンドブック』ウォルフガング・ロッツ

第134回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
ニュース 社会 国際 読書

 ウォルフガング・ロッツ(1921年〜1993年)は、世界インテリジェンス史に名を残したモサド(イスラエル諜報特務局)の秘密エージェント(スパイ)だ。夫婦でエジプトに潜入し、スパイ活動によってさまざまな軍事情報を得てモサドに送った。1965年にエジプトの秘密警察に逮捕され、終身刑の判決を言い渡されて服役していたが、第三次中東戦争(1967年)の際の捕虜交換でイスラエルに帰還した。本書『スパイのためのハンドブック』は、現在も各国インテリジェンス機関員の必読書になっている。

『スパイのためのハンドブック』ウォルフガング・ロッツ

 特に興味深いのが、逮捕された後、スパイの身の上に起きる事態についての記述だ。

〈いつの日か、あなたが逮捕される時がやってくるかもしれない。そんなことが起こらないことを願うものであるが、平均の法則によれば、この仕事にとどまる時間が長ければ長いほど、面倒にかかわらないでいる可能性が低くなる〉

 取り調べはどのようなものになるのであろうか。

〈一般論として、尋問者が囚人から引き出せといわれている自白には明確に二つの型がある。一つは、いわゆる政治的自白である(非政治的な場合に用いられることもままあるが、それは例外である)。囚人は初めに自白すべきことをいわれる。前もって声明書が作られており、署名するだけになっていることもよくある。しかし、文書全体が囚人の自筆であることが望まれる時もあり、そういう場合には、内容を一語一語囚人に口述筆記させる。被告人は某々とともに反政府陰謀に加担した、と書かれるのがふつうであり、その背景も詳述される。囚人は自由意志による自白書に署名するか、そう“勧められる”かのどちらかである。そうした活動に彼がじっさいに加担したかどうかは、まったくどうでもよいことであり、尋問者は彼のいけにえがまったく無実であることを熟知しているが、どんな手段を用いても自白書に署名させるようにするのが彼の任務なのである。/こうした情況に置かれるようなことがあれば、あなたにできることはほとんどない。あなたがこの特定の状態にあると疑問の余地なく確信したら、助けを借りずにペンを握れるうちに相手の求める自白書に署名してしまうのが最良の策である。あなたは多くの悲しみと苦痛をうけないですむ。事態は絶望的に見えようが、政治犯の交換やいろいろな革命によりいつかあなたが釈放される可能性も残る。偽の自白書に署名するのを断固拒絶した政治的理想主義者に、十人以上も会ったことがある。むろん、結局は彼らも署名したのであり、しかも、一生涯不具でいることになったのである〉

供述調書に署名した方がいい

 これらの記述を頭に入れておけば、ロシアの同盟国ベラルーシにおいてスパイ容疑で日本人が摘発された事案も正確に読み解ける。

〈ベラルーシで拘束された中西雅敏さんに関する特別番組が五日、ベラルーシ国営テレビで放映された。「日本の国家公安委員会」の指示でスパイ活動をしたと主張しているが、証拠とする日本語のSNS投稿が、翻訳のロシア語は内容が違っているなどずさんな点が目立ち、正確さに疑問符がついた。/番組名は「東京からの『サムライ』の失敗」。それによると、中西さんは二〇一八年にベラルーシ南東部のホメリに移り住んだ。ウクライナとの国境付近に頻繁に出かけ、鉄道や橋などの写真を撮影し、軍事情報を収集したという。ベラルーシから出国直前の七月に国家保安委員会(KGB)が拘束したとしている。/映像の中で、中西さんは手錠をかけられて駅などで状況を説明。「写真は国家公安委員会に渡そうと思った」とし、「これは犯罪だ」と罪を認める様子も放送された〉(「朝日新聞デジタル」9月6日付)

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source : 文藝春秋 2024年11月号

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