社会の原像を構成した“暮らし”
伊賀国黒田荘は、現在の三重県名張市域の大半を占め、10世紀以来東大寺によって支配されてきた。日本中世史を専攻する者にとっては、石母田正氏の『中世的世界の形成』によって特別な意味を持つ地として記憶されてきた荘園である。1946年刊行の同書は、古代的支配者たる東大寺に対して、黒田荘の在地から生まれた中世的勢力が挑み、蹉跌と敗北を喫する過程を描いて戦後歴史学に決定的な影響を与えた。伝説的古典であり、人文学の道標となる成果である。
石母田氏の歴史観や史料操作等については、今日の歴史学の立場から見て、さまざまな問題があり、批判すべき点も多い。だが過去に確かに存在したひとつの世界を叙述しつくそうとする熱意と、歴史学を通じて自身の生きる時代の展望をひらこうとした志の高さは、くりかえし参照されるべきだろう。氏があきらかにしようとしたのは、自明のものとして存在する権力体に、ゼロから身を起こして立ち向かうことの困難と、歴史の進歩を実現する道が、いかに長く険しいかであった。
今回ご紹介する書物は、黒田荘を主たるテーマとして研究を続けてきた著者が、折々に書いた文章をまとめたものである。全体の基調は、中世の農業や、人々の生活の基盤の脆弱性を論じて、決して明るくない。序論で早くも、古代が培ったものがすくすくと成長して中世にいたるわけではないことが述べられている。古代国家の権力の表徴として造られた堂々たる道路が、中世には狭くてくねくねした貧弱な街道になってしまうように、歴史は後退しているとしか思えない一面を示すことがある。歴史の発展についての著者の見かたは、石母田氏の視角を継承するものといえるだろう。
「わが国の中世社会は自立した農民を簡単に出現させるほど楽な時代ではなかった」と著者は記す。高温多湿や梅雨・台風、地震や津波等、日本の気候風土は、実は農業に不適で、多大な労力の投入を必要とする。災害に見舞われずとも、中世の農村は生存に必要な収穫量を確保することができなかった。飢餓は日常で人口は停滞していた。自立した農民とは、土地との緊密な結合があってこそ成立するものだろうが、生産体制が安定しないために、民衆は遍歴漂浪し、農業だけでなく、さまざまな雑業にたずさわって日々をしのがねばならなかった。彼らの暮らしこそが、中世社会の原像を構成していたのだという。
時代に抗う役割を担うのは、長者と悪党である。いずれも特定の土地に縛られるのではなく、広域にわたるネットワークを形成し、資金や武力を蓄え、運用していた。長者は12世紀後半に遠隔地交易で力をつけた商人武者、悪党は13世紀末〜14世紀初めに社会問題化した民間武装民だ。前者は内乱と武家政権成立の時代にあらわれ、後者は後醍醐天皇と結びついて、鎌倉幕府の転覆から南北朝の動乱への混乱期を駆け抜けた。著者は、彼らの破格のエネルギーを語るとともに、その活動の独善性・土地や底辺民衆から遊離した状況を鋭く指摘している。
本書は説得力に富む筆致で、中世前期という時代の持つネガティブな要素を示し、刺激と示唆に満ちている。だが歩みが遅く、躓き転びながらであっても、歴史はやはり発展する。おそらくは、より多くの者の尊厳の獲得に向けて。
未分化で矛盾に満ちた人間と社会を考えるために、ぜひご一読を。
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