三洋電機を創業し、後に「三種の神器」の一つとなる洗濯機を世に送り出した井植歳男(1902〜1969)。長男で同社元会長の井植敏氏が、ヒット商品誕生の裏側を明かす。
三洋電機の創業者である父・井植歳男には逞しさがありました。
父は松下幸之助さんの義理の弟で、松下電気器具製作所(後の松下電器)の創業メンバーです。戦後、GHQから公職追放を受け、自らの意思で専務の職を辞しましたが、「経営の神様」と呼ばれる義兄を支え、松下電器の発展に寄与した父は、転んでもただでは起きなかった。再スタートを切ってからは独立するための資金調達として、駐留米軍をターゲットに商売を始めたのです。
彼らは家族で日本に住みます。そうなると住宅が必要ですが、アメリカ人は間接照明を好むと聞き、父は、電気スタンドに目を付けました。戦後の物資不足のなかで、軍用の落下傘のシルクを傘として使うなど、戦争で不要となった素材を有効活用して商品を完成させたのです。父があえて米軍相手に商売をしたのは、「戦争では負けたが商売では勝つ」という強い意志の表れだったはず。ここで得た資金で昭和22(1947)年に設立したのが、三洋電機の前身・三洋電機製作所です。
常に大衆に目を向けていました。自転車に不可欠なものだとわかると発電ランプを製造し、多くの家庭でラジオが求められていると知ると、日本初のプラスチックラジオを開発し、いずれもヒットさせました。
洗濯機はその最たる商品です。昭和20年代は、まだ「タライに洗濯板」の重労働を強いられている家庭が多く、父は「日本の奥さん方を楽にさせてやりたい」と思っていた。当時の電気洗濯機は、ドラム缶のようなタンクの中央にある翼状の突起物を回転させて衣類を洗う「攪拌式」が主流で、三洋電機も当初はこのタイプで販売する予定でした。ところが、量産する上で価格が見合わず、完成間近で取りやめた。その後、国内外問わず洗濯機を取り寄せるなかで父が可能性を見出したのが、洗濯槽に設置されたプロペラの回転で、渦巻のような水流を起こして汚れを落とす「噴流式」でした。
高校のラグビー部に所属していた私が泥だらけのシャツを持ち帰ると、父がすぐ試作段階の洗濯機で洗い、「もういっぺん走ってこい」と外に出される。面倒で近くの蓮池でわざと汚して帰った日には、きつくどやされた思い出もあります。それだけ開発には真剣だったのです。
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