明石家さんま(1955〜)は、バラエティ番組から『男女7人夏物語』などのドラマに至るまで80年代のテレビを席巻した。ディレクターとして長年番組制作をともにした三宅恵介氏がその素顔を語る。
さんまさんと初めてお会いしたのは、昭和55(1980)年のお正月、『初詣爆笑ヒットパレード』だったと思います。司会が桂三枝(現・六代目桂文枝)師匠で、大晦日に他の関西の芸人さんたちと一緒に来られました。その打ち合わせの際、師匠が「この子は凄く出来る若手やから、明日アシスタントで使いたい」と紹介してくれたのが、若きさんまさんでした。打ち合わせが済んだ後に師匠、さんまさんたちと一席設ける流れになりました。その座で師匠は得意の手品を披露して、「さんま君もやってご覧」と水を向けた。すると、さんまさんは手品をネタに絶妙のボケで返したんです。その場の空気を読んだボケっぷりに鮮烈な印象を受けたのを覚えています。
その後、さんまさんは昭和56年にスタートした『オレたちひょうきん族』にブラックデビルとして登場しブレイクを果たします。高田純次さんの後任でしたから、プレッシャーはあったと思います。さんまさんは初登場の前に何パターンも鳴き声を録音してきて、「どの鳴き声がいい?」と意見を求めてきました。その時、なんて熱心な人だと舌を巻きました。その笑いを追求する姿勢は、さんまさんが造形したアミダばばあ・知っとるケなどの歴代キャラにも活きています。
また言語感覚も豊かでした。相手にツッコむ際に「バカ!」などとトゲのある言葉ではなく、「アホ」を多用するところは視聴者を慮る繊細さが滲んでいます。また、「Hした?」を定着させたように造語のセンスも素晴らしい。ゴールデンタイムの番組中、セックス絡みの言葉をマイルドにした感覚はすごいと思います。
さんまさんは大将(萩本欽一さん)と同じ様に1人ではなく、誰かとのパスワークで笑いを生む才能の持ち主。東京進出初期の『笑ってる場合ですよ!』のコーナーでは本領を発揮できなかった。その反省を踏まえて『ひょうきん族』ではビートたけしさん、『笑っていいとも!』ではタモリさんを得て、独自の笑いを作っていきました。その修正力も凄いです。
ビッグ3の一角に
タモリ+たけし+さんまの“ビッグ3”と称されていますが、あの当時、さんまさんは、たけしさんと共演して「お前は俺とタモリのどっち派だ」と訊かれたら、「そらあんたでんがな」と答えていた。いっぽうでタモリさんに「どっちの味方よ」と問われたら「そらタモリさん」と言う。その絶妙な幇間芸でトライアングルの一角になっていきました。
昭和62年に始まった特番『一億人のテレビ夢列島』第1回でタモリさんと総合司会を務めた時のことは忘れられません。フライデー事件で謹慎していたたけしさんが深夜、パターゴルフに興じつつ3人でトークを繰り広げた。その視聴率は深夜で異例の20%近くに達しました。
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