昭和36(1961)年の初演から、公演回数2000回を数えた『放浪記』をはじめ、数々の舞台や映画で活躍した女優・森光子(1920〜2012)。彼女を姉のように慕う井上順氏がその素顔を語る。
森さんと初めてお仕事でご一緒したのは、昭和44(1969)年のドラマ『もうれつ大家族』。当時、「ザ・スパイダース」のメンバーだった僕にとって、これが俳優としての初仕事でした。江守徹さん、宍戸錠さん、水前寺清子さんと錚々たる共演陣の中で緊張しきりの僕に、森さんは優しく声をかけてくださった。森さんは大女優然としたところがなく、常に腰が低い。それは戦後、進駐軍のキャンプで歌手として活動するなど、苦労を重ねてきたからなのでしょう。
一方で、古いものに縛られず、常に新たな刺激を求める一面も。「順ちゃんは、いつもどこで遊んでいるの?」と聞かれ、僕の行きつけの店でご飯を食べ、ディスコで踊り明かしたこともありました。
僕が演技に対して心がけていることを尋ねた時、森さんが答えたのは「一つはセリフを覚えてくること。もう一つは遅刻しないこと」だけ。最初は「そんなこと?」と思ったのですが、セリフをきちんと覚えておくと、相手役のセリフについても考察し、役に対する理解を深められる。ゆとりを持って現場入りすれば、やるべきことを頭の中で整理し、スタッフの動きも見えてくる。森さんは、とてつもなく深いことを教えてくれたのだと、時間が経つにつれて実感するようになりました。
森さんの舞台では、役者がセリフを忘れたり、噛んだりしたら罰金を払う制度がありました。あれは平成6(1994)年の舞台『御いのち』でのこと。登場人物の死を伝えるシリアスなシーンで最前列のお客さんが「あらぁ!」と声をあげたんです。森さんは吹き出しそうになりながらも、台本どおり泣き崩れた。かと思ったら、お客様に背を向けながら僕を見上げてニコッと笑ったんですよ。これは森さん流のイタズラ。僕は笑いをこらえるのに必死で、太ももをつねって耐えた。しばらく間が空き、スタッフは僕がセリフを忘れたんじゃないかとハラハラしたそうです。終演後、森さんは「順ちゃん、罰金3万円ね」。「森さんだって吹き出しそうになってたじゃないですか」と口を尖らせたら「あれは泣き声よ」とニヤリ。
実は、この罰金制度も森さんの気遣いから生まれたもの。森さんは徴収した罰金を積み立て、スタッフの慰労会を開いていた。舞台を支えるすべての人に対する労(ねぎら)いの気持ちを常に持っていたんです。
ただ、東山紀之さんには甘かった。罰金だって僕からは徴収するのに彼がトチッても「あれはミスじゃない」。ある時なんて、森さんが行きたがっていたお店を予約したのに、「東山さんから食事に誘われたから、また今度」って。それなら2人で行けばいいのに、なぜか僕も同席させられる。たぶん間が持たなかったんでしょうね。だって2人の会話は「森さん、これ美味しいですよ」「おいしゅうございますね」なんて感じで、全然続かない(笑)。それで僕が茶々を入れると「もう! 順ちゃんには情緒ってものがないのね」と𠮟られる。そんな役回りでも、僕は森さんが笑顔になってくれるのが嬉しかった。彼女は周囲にそう思わせる魅力がある人でした。
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